は傲然《ごうぜん》と私を見返したが、女は寧《むし》ろ避けるやうに自分の菊の花を向ふ側に向けた。
第三の人が言つた。
――私は女が一人で或る省線の歩廊から電車に乗らうとするところに行き会つた。私が性急に乗り込まうとすると、女は一たん車台に掛けた片足を態々《わざわざ》引つ込めて、人を見下すやうな例の微笑を示しながら私に先を譲つた。頸には紫色の菊の花をつけて。
噂は明子の耳にも伝つて来た。言ふまでも無くそれは伊曾と劉子に関するものに異《ちが》ひなかつた。そしてこれらの人々の観察はどれも夫々《それぞれ》一面の真相と一面の反感に依《よ》る大きな歪《ゆが》みとを有《も》つてゐるのに相違なかつた。
明子はこの噂を耳にしたとき、不思議に美しいものを見たやうに思つた。それは或ひは、さまざまな出来事が彼女を無残に踏み荒したあとの疲労が知らず知らず彼女の情感の反射熱を昂《たか》めてゐたせゐに異ひない。情感はいつ知れず彼女の胸に丸やかな肉の線を与へてゐた。呼吸をするたびに、その胸の線がまるで白鳥の胸のやうに豊かにふくらんだ。膏脂《こうし》が体内に沈澱《ちんでん》して何か不思議な重さで彼女自身を懶《ものう》くした。いつか皮膚にも同じ膏脂は再び流れはじめてゐたが、それは外光に見るとき寧ろ醜い色合を有つてゐた。彼女は日に幾度ひそかにそれを化粧水で拭《ふ》きとるか知れなかつた。そんな状態にある明子が、彼等二人の頸に咲いてゐるといふ血紫色の菊の花をまざまざと見るやうに思つた。
明子はこの二つの花がまるで彼女自身の許しを得て開いたもののやうに感じた。彼女の許しなしには遂《つい》に咲く機会のなかつたに異《ちが》ひない菊の花なのだ。折角《せっかく》こんな麗《うる》はしさに花咲いた菊を今更どこへ置かうかと思ひ惑《まど》つた。
敗北の感じも、憎悪の感じも、二つながら無かつた。明子は劉子の呪《のろ》ひの輪を抜け出して、今はもう硬い青いポアンなんかではなかつた。そんな窮屈な輪は苦渋な涙と一緒に消え弾《はじ》け、彼女はもつとふくよかに空間に拡《ひろが》つた一つの美しい円であつた。寧《むし》ろ彼等二人を憐《あわれ》まなければならないのは彼女の方だつた。彼等はお互《たがい》に菊の花を有《も》ちながら、いつ迄その子供らしい危険な遊戯を続けて行くのであらうか。その菊の花は私が貰《もら》はなければならない。……母親が危険な玩具《おもちゃ》を子供たちから取り戻すやうな気持で、明子はさう思ひめぐらした。
秋がおほらかに天を渡りつつあつた。この豊かな光の下で彼等二人も美しい生活を織り始めてゐるのに異ひなかつた。明子は明子で自らの美しい生活を振り返つた。彼女の眼に村瀬の栗《くり》色の肉体が仄見《ほのみ》えた。ただ一つ、菊の花の遣《や》り場が彼女を思ひ惑はせてゐた。
仄見えた村瀬の肉体がこのとき不思議な方法で変化しつつあつた。明子は夢みる眸《ひとみ》を空間に送つてゐた。
やがて変化が完成された。そこには彼女の天の幼児が蒼《あお》ざめた肉体を横《よこた》へてゐた。彼女は思ひ当つた。
――さう、あの二つの菊の花はあの子の両手にこそふさはしい。
彼女の思念をこの時何物かが音もなく溶け去つて行つた。彼女は豊かに胸をはつて、満足した母親の眼を天の幼児に投げた。幸福な一瞬がそこを訪れてゐた。彼女は思ひ疲れていつか眼をつぶつた。
村瀬が急に変つた徴候をあらはしはじめた。子供じみた彼の顔から血紅が落潮の早さで退《ひ》いて行くのを明子は見た。それと反対に、彼は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》子供つぽい反抗を彼女に示すやうになつた。憑《つ》かれたもののやうに、眼を一杯に見開いて突然彼女の腕を逃れようと身もだえすることも度重《たびかさ》なつた。
明子は、村瀬が確かに何かを見たのに異ひないと思つた。だが、この青年にこんな影響を与へるものとは一体何だらう。明子は或る時思ひ切つてこのことを村瀬に詰問した。
――僕はあなたの肖像を見ちやつたんです。
村瀬が子供つぽい反抗に唇を蒼《あお》ざめさせてさう答へた。
――それは、伊曾が描いたものだつたの?
――もしさうだつたとしたら、貴女《あなた》はどんな気がします。
彼は興奮で白つぽくなりながら叫んだ。
――さうね。少しは淋《さび》しい気がするかしら。でも、何故《なぜ》それがそんなに一生懸命にならなければならない問題なの。あの人にはあの人の世界があるわ。その世界で何を描いたつて、何も私まで大騒ぎすることはないでせう。
明子は落着いた調子で答へた。その声は幼児に対する慈母の優しさを帯びてゐた。だが、声を裏切つて、明子の顔にこのとき不思議な表情が浮んでゐた。蒼《あお》ざめた唇が歪《ゆが》み、彼女は久し振りで、忘れられたモナ・リザの笑
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング