るイギリスの新しい作家の小説に異《ちが》ひなかつた。村瀬がこの鼠色の部厚な本をよく抱へてゐるのには明子も気がついてゐた。が、それが伊曾の本だつたことは、彼女は今はじめて知つた。彼が譫言《うわごと》のやうに言ひ続けてゐた。
――頁の折つてある処《ところ》を開けて御覧なさい。そこに黝《くろ》い球のことが書いてあるでせう。黝い球つて毒薬なんです。それを僕が呑《の》むか、あなたが呑むか、どつちかに決つてゐたんです。が、やつぱり僕だつた。今やつと解つた。
彼は力が尽きたやうにベッドに仰向《あおむ》けに倒れ落ちた。そして眼を閉ぢてしまつた。それに引き込まれて明子も椅子《いす》に沈んだ。勿論《もちろん》その本などには触つて見る気も起らなかつた。村瀬が子供つぽい仕草で彼女に匿《かく》してゐたものはこれだつた。彼はこの本の数行の活字を梯《はしご》にして、三人の伝説に攀《よ》ぢ登らうと一生懸命になつてゐたのだ。だが、どうして? 何のために? 明子はやはりそこに何か気味の悪いものの命令を嗅《か》ぎつけない訳には行かなかつた。それは或ひは伊曾の眼のやうでもあつた。そして一瞬間彼女は、全く久し振りで伊曾が単独で彼女の傍に来て坐《すわ》るのを見た。不気味に、音もなく。
彼女には纔《わず》かにその輪廓《りんかく》だけしか想像されずにゐた長い争闘によつて傷《きずつ》いた青年がそこに横《よこた》はつてゐた。彼女は憫《あわ》れむやうに青年の姿を改めて見直した。彼の胸ははだけて、寝衣の間から蒼《あお》ざめた皮膚が浮び上るやうに眺められた。次の瞬間、彼女は全く別のことを考へてゐた。長い間|推《お》し秘《かく》された一つの影響がこの時花さいたもののやうだつた。あたりが花の匂ひに満ちた。蒼ざめた天の幼児がそつと降りて来て、村瀬の皮膚に合体したのが見えた。幼児が成長して地上のものの姿でその肉体を明子の前に横たへたかの様だつた。彼女は、自分が村瀬を愛したのは幼児の蒼ざめた皮膚を愛するためにだつた事をはつきりと了解した。眼の前の青年の胸には二つの菊の花までが、その血紫色を黝《くろ》ずませて。……
やがて明子は立ち上つた。彼女は医者を呼ぶために壁のボタンを長く押し続けた。
底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
1961(昭和36)年発行
初出:「作品」
1930(昭和5)年12月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
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