ベッドの上で喀血《かっけつ》した。
 衝立《ついたて》の蔭《かげ》で朝の化粧をしてゐた明子は、彼の叫声《さけびごえ》に愕《おどろ》いて飛び出して来た。白いシイツに血が鋭く鮮紅の箭《や》を射てゐた。はじめ彼女は村瀬が何か鋭利な刃物で自殺をはかつたのだと信じた。
 ――コップ。コップ。
 彼が咳《せ》き入つて叫んだ。明子が枕許《まくらもと》のコップを口に当てがつてやると彼は待ち兼ねたやうに二度目の多量の喀血《かっけつ》をした。血がコップを溢《あふ》れて明子の手の甲を汚した。血は皮膚の脂肪にはじかれて斑《まだ》らに残つた。これで落着くかと彼女は思つた。明子には先《ま》づこの血に満ちたコップをどう処置するかが非常に重要なことに考へられて、ぢつとそれを握りしめてゐた。
 しかし第三の発作が起つた。村瀬が胸をのめらせて枕に縋《すが》りついた。明子は突嗟《とっさ》に自分の両手で吐かれる血を受けた。彼女は血だらけになつた両手を村瀬の口に押しつけながら、顔すれすれに近づけてささやいた。涙が冷たく蒼《あお》ざめた頬《ほお》に散つた。
 ――どうしたの、一体。
 今度は比較的量は少なかつたが、それでも両手の窩《あな》をほとんど満《みた》した。それでやつと病人は落着いたやうだつた。彼女は洗面台へ手を洗ひに立つた。水の音を聞くと村瀬はむつくりと半身をもたげた。彼女には手を浄《きよ》めるひまもなかつた。
 ――何です。どうするの。動いちやいけません。
 ――あれを、あれを取るんです。
 村瀬が歯をくひしばつてやつと言つた。彼の片手は壁の棚に達してゐた。
 ――そんな事なら私がして上げます。あなたはそつとして居なくちや駄目《だめ》よ。
 明子が遮《さえぎ》らうとしたとき、村瀬の手は案外|脆《もろ》くがくりと垂れた。がそれと、棚から一冊の鼠《ねずみ》色の本が頁《ページ》を飜《ひるがえ》してベッドに伏《ふ》さつて落ちたのとは全く同時だつた。村瀬はすばやくその本を掴《つか》んでゐた。
 ――これなんです。
 彼が不気味に顔を曲げて笑はうとした。
 ――何、それは?
 ――これに書いてあるんです。それが長い間僕を苦しめてゐたんです。しかし、やつと解つた。やつぱり僕だつたのだ。
 明子は伏さつた本の表紙に眼を走らせた。そこに伊曾の名が刷つてあつた。とすれば、それは伊曾の飜訳《ほんやく》で近ごろ出版された或
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