精神が奴隷《どれい》になり果てるのを急激に経験し理解した。彼女にとつてそれが恋の死ぬばかりの快よさの全部であつた。定はこの様な花子の前に俘囚《ふしゅう》のやうに盲従しなければならない自分の位置を間もなく知つた。夏になり、やがて暦のうへでの夏が畢《おわ》つた。残暑の日が長たらしく続き、それが水の上の生活を沙漠《さばく》に咲き誇る石鹸天《さぼてん》の様に荒廃させた。密度の高い瘴気《しょうき》が来る日も来る日も彼等の周囲を罩《こ》めて凝固してゐた。白昼の太陽が別の世界の太陽でもあるかのやうに実に高い所でくるめいた。暑い瘴気の層を透して人々は昼の星宿の回転する響音を聴いた。そんな真昼どき花子は定に自分の姙娠《にんしん》を告げた。彼女は晩夏の花のやうに傲慢《ごうまん》に唇をそらした。定は黙つて彼女を聴き、聴き畢ると眼を真昼の星宿の方へと投げた。彼は自分の裡《うち》に判然《はっきり》とした形をとつた花子への「憎悪」をはじめて此《こ》の時に感じた。彼の心は悲哀に満ち、彼には蒼《あお》ざめた星宿が無性になつかしかつた。
憎悪といへば娘の姙娠についてステラの船長は定よりももつと致命的な憎悪を感じた。彼
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