》ない浅瀬に、或る時は都市の中央に架《かか》つた巨大な橋の下に。その年、夏ちかく川筋一帯を襲つた浅ましい「不景気」のため、此の船は一と月あまりの間も明石|河岸《がし》にへたばり着いたまま死んだものの様に動かなかつた。父親は乏しい質草《しちぐさ》を次から次へと飲みあげ、濁声《だみごえ》で歌を唄《うた》ひ、稀《まれ》には「女」といぎたなく船底にもぐつて眠つた。定は陸《おか》を怖れてゐたので街をうろつくことは無かつたものの、その様な夜更けには板子の上に突つ起《た》つてはげしく然《しか》し声もなく月に向つて吠《ほ》えわめいた。彼が花子を恋する様になつたのはそんな夜の一つであつた。[#「一つであつた。」は底本では「一つであつた」]
定は闇の中にぢつと何かを見つめて立つてゐた。彼にはそれが何なのか解らなかつた。唯《ただ》其処《そこ》から鈍い光りがにぢみ出てゐるのには相違なかつた。昼のあひだの酷《ひど》い暑気に蒸された川の面の臭ひに夜更けの冷気がしんしんと入れ混つて、たとへば葦間《いかん》の腐臭を嗅《か》ぐやうな不思議な匂《におい》を有《も》つた靄《もや》が、風が無いのでヒソリともしない水面低く立
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