昨日来てお父さんと話しをしてゐた。」
「え! 叔父さんが? ……」

 その夜から数日ののち、夕暮どきの混雑にまぎれて二人の幼い恋人たちは或る造船所の裏手から一隻の破れた小舟を盗み出して隅田川の下流に近い埋立地の溝渠《ほりわり》を漕《こ》ぎ上つて行つた。そして淋《さび》しい場所に出ると彼等は葭《あし》の間に舟をかくして夜の更けるのを待つた。花子が寒さに顫《ふる》へるのを定は膝《ひざ》の上にぢつと抱きしめてやつた。彼は絶えず美しい夢を見た。二人は殆《ほと》んど口をきかなかつた。やがて真夜中が来たとき、彼等は舟を流れの中ほどに出しお互《たがい》の身体をしつかりと結び付けて舟を静かに倒した。ごく低い水音がして瀝青《れきせい》と芥《あくた》の波が少し立つた。その夜は月が無かつた。彼等は一たん底まで沈んだが、やがて浮き上つて来たときには泥を含んだ藁屑《わらくず》を肩や顔にかぶつて醜くかつた。花子がまだ時々身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くたびに藁屑の上で夜光虫が青い光を放つた。暫《しばら》くすると二人は河底の深い泥の中に再び沈み込んで夜通し其処《そこ》でぢつとしてゐた。
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