黙る。秋の微風と星光が保姆にたのしい。彼女は川の方へと行く。崖《がけ》のうへに出る木扉を押さうとして彼女はフト佇《たたず》む。彼女はすぐ傍に忍びやかな話声を聞く。男の声と女の声がきこえる。――
「いまの声が聞えた? 赤ん坊が欷《な》いてゐる!」
「聞えたわ。赤ん坊が欷いてゐた。それをあやす女の声もした。」
「赤ん坊はお乳が欲しいから欷くんだね。もう真夜中だから。」
「さうなのね。」
「僕はとても幸福な気持がする。僕にはいまの赤ん坊の欷声《なきごえ》が天国から聞える様に思へた。」
「私にも何だか遠い世界から聞えて来る様に思へた。けれど天国からぢやなかつたわ。」
「どうしてそんな事を言ふの? 天国からさ! 僕はぢきにお父さんになるんだ。」
「子供のくせにそんな事いふもんぢやないわ。……いや! およしつてば! そんな事するものぢやなくてよ。」
「僕は赤ん坊がもう触《さわ》れやしないかと思つたのだよ。僕たちの天国の赤ん坊が。……」
「………………」
「なぜ何にも言はないの? なぜそんな冷たい表情をするの? その顔はお月様の光に凍《こご》えついてしまひさうな顔つきだ。花ちやんは随分やせたね。かう
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