ごく小量の分け前にしか過ぎないのだから。これらの疲労した川筋を通して一年に七千四百万貫の塵芥《じんかい》を吹き、六十万|石《ごく》の糞尿《ふんにょう》を棄《す》て、さらに八億立方|尺《しゃく》にも余る汚水を吐き出す此の巨大な怪獣の皮腺《ひせん》から漏《も》れる垢脂《こうし》に過ぎないのだから。……のみならず、この夥《おびただ》しい排泄《はいせつ》物の腐れた臭ひに半ばは埋《うも》れて一万二千の小舟が動き廻り、三万余りの男女がその中に「生きて」ゐるのを私たちは知つてゐる。私たちが殆《ほとん》ど忘れたままでゐる自分の蹠《あなうら》よりももつと低いところに。そして黄昏《たそがれ》が消えると街は彼女の鏡を力無く取り落すのである。街と川とは別々に、秘密に満ちた夜闇に陥つて行くのである。

 大正十二年の罹災《りさい》によつて一時はその数を三分の一にも減じた水上生活者の群が、いつとは知れず再び元通りの数に近づかうとしてゐた頃の或る夏近くのことであるが、ステラと名づけられた一|隻《せき》の真白な快走船が隅田川の下流を中心にある仕事に従ふ様になつて、その際だつた姿態によつて他の舟々の眼を惹《ひ》いてゐた。ステラが「仲間」の眼を惹いたのはしかしその船体によつてだけではなく、その名のとほり「星」のやうな船長の一人娘の耀《かがや》きによつてでもあつた。肉づきのいい大柄な此の娘は真白なセイラーの裳《もすそ》を川風にひるがへして、甲板《かんぱん》に立つて舵《かじ》を操つた。彼女は花子と呼ばれた。そして偶然の導きによつて、ステラが夜の泊りにする慣はしである明石橋を入り込んだささやかな湾《いりうみ》に似た水に、しかもよく隣り合はせて夜を睡《ねむ》る一隻の名もない古びた伝馬《てんま》船があつた。その仲間の言葉で「風来船」と呼びならされる一群の船のひとつである此の船の息子に定と呼ばれる少年があつた。此の少年が間もなく花子を恋する様になつた。
 定の父親は赭《あか》ら顔の酒食ひで陸に暮してゐた頃から定職がなかつたと同様、川に追はれて来てもやはり彼の船は定つた航路を有《も》たなかつた。船は時にその腹に汚水や糞尿を船脚《ふなあし》の重くなるまで満喫する代りには時に淫蕩《いんとう》な男女の秘密を載せて軽々と浮く様な性質のものであつた。従つてその泊り場も一定してゐた訳ではなく、或る時は隅田川の上流の人気《ひとけ
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