まんまと化かされてみるがいい。いいやどうして、その段じゃ済むまいぜ。あの婿さんは二人とも相当な曲者だったが、うちの弟ときた日にや、あの通りの正直権現、弱気地蔵だからなあ。まあいいさ、――弟のやつも女房のやつも、たんと瞞くらかされるがいいや。月下氷人《なこうど》という役がどんなに難かしいものか、第一課でうんと手を焼いてみるがいいや。』
 僕は女中の手からお茶のコップを受けとると、坐りこんで訴訟書類に目をとおしはじめた。それは明日から裁判のはじまる事件で、僕にとってはちょっと骨の折れる仕事だったのだ。
 調べ物につい気をとられて、気がついた時はもう真夜中をだいぶ越していたが、家内と弟とは二時という時刻に、二人ともすこぶる御機嫌さんで帰ってきた。
 家内が言うことにや、――
「いかが、コールド・ビーフを、葡萄酒に水をあしらって召しあがらないこと? わたしたちは、ヴァシーリエヴナさんところで、お夜食をすませて来ましたの。」
「いや」と僕、――「御好意は忝けないがね。」
「ニコライ・イヴァーノヴィチさんたら、すごく気前を見せてね、わたしたちすっかり御馳走になっちまったわ。」
「なるほどね。」

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