やうなものを強《し》ひるのである……。
A氏は次第にいまいましくなつた。そこで思ひ切つてホープの函《はこ》をポケットからとり出すと、ふと小声で独りごちたのである。――
「お嬢さん、何だつてさう浮かない顔をしてらつしやる?」
これは断じてこの令嬢に言ひかけたのではない。ふつとさういふ母国語の一句が鼻唄のやうな韻律をもつて口をついたに過ぎなかつた。
と、その途端に再びA氏を愕《おどろ》かせることが起つた。その令嬢は、つと窓の外からA氏の顔に眼を転ずると、意外なことに生粋《きっすい》のロシヤ語で――恐らくA氏が来朝以来はじめて日本人の口から聞くことが出来たほどの生粋のロシヤ語で、切つて返して来た。
「何でもございませんわ。私はただ退屈なだけですの。」
A氏は唖然《あぜん》とした。次いでさつと顔を紅らめた。次いで、ああ飛んでもないことを言はなくつてよかつたと胸を撫《な》でおろした。
この退屈した二人が、令嬢の下車した温泉駅までの時間を、お互ひに意外な話相手を見出《みいだ》したことは言ふまでもない。A氏の聞いた所によると、何でもその令嬢は外交官の娘で、永らくロシヤに滞在したことのある人
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