三つの挿話
神西清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)外套《がいとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)勇躍|狙《ねら》ひを
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)くしやくしや[#「くしやくしや」に傍点]
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A氏は南露出身の機械技師である。北鉄譲渡の決済事務で東京へやつて来てから二ヶ月ほどたち、そろそろ日本人の人情にも慣れ気持のゆとりも出来てきたので、平気で一人旅をするやうになつた。これも、A氏がある工場へ買付品の検収のため旅行したときの挿話である。
その二等車は大して混み合つてゐたわけでもなかつたが、A氏の向ひは空席ではなく一人の若い日本の令嬢が腰を下ろしてゐた。この令嬢は始発駅で発車間ぎはにすうつと乗り込んで来て、ほかに適当な席も見当らなかつたのだらう、別にこだはる様子もなく外国人であるA氏の前に席をとつたのである。持物といつたらハンドバッグ一つきり、連れがあるかと思へばさうでもない。黒いスーツに黒い外套《がいとう》、それを細つそりした身に上品に着こなしてゐる。席につくなりA氏に一瞥《いちべつ》を与へるでもなく、窓外へ眼をそらした。
尤《もっと》もA氏の方でも、この令嬢を初めからじろじろ眺める非礼を敢《あえ》てしたわけではない。彼はだいぶん時代のついたボストン・バッグから、今朝事務所で受けとつた妻の便りや新聞や、また検収に必要な規格上の要項やさうしたものを取り出して読み耽《ふけ》つた。二時間ほどして、もうほかに読むものがなくなつたとき、思ひ出したやうにポケットの煙草《たばこ》へ手をやりながら、はじめて向ひ側の令嬢に注意したのである。
彼女は相変らず窓外の景色に所在なささうな眸《ひとみ》を放つてゐる。A氏には彼女が、乗り込んだ時から身じろぎもせずにその退屈な姿勢をとりつづけてゐるもののやうに見える。うち見たところ教養も豊かに具《そな》へてゐるに違ひないこの令嬢が、雑誌一つ開くではなくぼんやりと窓外へ眼をやつてゐるのが、ひどく不思議なやうな気がした。いや、不思議といへばそれだけではない。よく見ると、西洋の鷹匠《たかじょう》のかぶるやうな黒い帽子で半ばかくされてゐるその額《ひたい》が、思ひなしか妙に蒼《あお》ざめて深い憂愁を湛《たた》へてゐるやうにさへ見えるのである。光線の具合かな
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