、とA氏は思つた。だがそれにしても……。
 一体A氏は日本の令嬢なるものをしげしげと観察する機会にめぐまれたのはこれが初めてなのである。来朝以来、公けの席などで芸者といふものを恰《あたか》も日本の代表的女性のやうに誇示される機会はあるにはあつたが、正直のところA氏はこの種の女性には怖毛《おぞけ》をふるつてゐる。不自然な結髪、生彩のない厚化粧、そして何よりも堪《たま》らないあの髪油の匂ひ、といふよりも寧《むし》ろ臭気。さうした死んだ美を敢《あえ》て外国人に誇示する日本人の心理を、寧ろ怪訝《けげん》なものにさへ思つてゐる。といつて日本の家庭に縁のないA氏は、銀座や劇場などで見かける溌剌《はつらつ》とした令嬢に、わづかに日本女性の生ける美を見出《みいだ》して来たに過ぎない。
 しかし、いま眼《ま》のあたりにするこの令嬢は、少くもそれら嬉々《きき》とした令嬢群とも選を異にしてゐるやうである。ひよつとしたらこれは、日本の智的な女性の代表的タイプの一つかも知れない。憂愁の底に一種をかし難い気品がある。それが平ぜい女性の前で煙草を喫《す》ふことなど一向に平気なA氏にも、何か一言ゆるしを得たい義務感のやうなものを強《し》ひるのである……。
 A氏は次第にいまいましくなつた。そこで思ひ切つてホープの函《はこ》をポケットからとり出すと、ふと小声で独りごちたのである。――
「お嬢さん、何だつてさう浮かない顔をしてらつしやる?」
 これは断じてこの令嬢に言ひかけたのではない。ふつとさういふ母国語の一句が鼻唄のやうな韻律をもつて口をついたに過ぎなかつた。
 と、その途端に再びA氏を愕《おどろ》かせることが起つた。その令嬢は、つと窓の外からA氏の顔に眼を転ずると、意外なことに生粋《きっすい》のロシヤ語で――恐らくA氏が来朝以来はじめて日本人の口から聞くことが出来たほどの生粋のロシヤ語で、切つて返して来た。
「何でもございませんわ。私はただ退屈なだけですの。」
 A氏は唖然《あぜん》とした。次いでさつと顔を紅らめた。次いで、ああ飛んでもないことを言はなくつてよかつたと胸を撫《な》でおろした。
 この退屈した二人が、令嬢の下車した温泉駅までの時間を、お互ひに意外な話相手を見出《みいだ》したことは言ふまでもない。A氏の聞いた所によると、何でもその令嬢は外交官の娘で、永らくロシヤに滞在したことのある人
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