モスクヴァ生れのC技師はここまで話して、からからと大口あけて笑つた。日本人のBはそこで、C氏がこの譬喩でもつてA氏をも含めての南露人の法螺《ほら》吹きの一面を笑ひ飛ばしたことを卒然として悟つたが、さりとてあの令嬢の一件をまんざらA氏の千|三《み》つ――否、虎|三《み》つ振りだとも断定できないのを感じた。
よしんばあの話が、A氏の裡《うち》のやみがたい郷愁の語らせた作り話であるにしても、それならそれで美しいではないかとも思はれたし、またA氏の持つかなり観察の鋭い一面も知つてゐて、さうさう与太を飛ばす人ではないやうに思つてゐたからである。そのA氏の観察の細かさについては、例へば次のやうな挿話がある。
或る日のことBは商用のためA氏に附き添つて東北方面へ旅行した。車中の無聊《ぶりょう》を紛らすため、Bは近頃になつて習ひ覚えた西洋将棋の盤を出して、かねがねその道の達人と聞いてゐるA氏に挑戦した。A氏も固《もと》より異存のある筈《はず》がない。二人は忽《たちま》ち夢中で駒《こま》を動かしはじめた。
それは半分に仕切つた二等車だつた。唯《ただ》でさへ碁将棋には物見だかい日本人のことだから、一人寄り二人集まりして、しまひには乗り合はした五六人の客は残らず盤のまはりに顔を並べてしまつた。
「へえ、桂馬《けいま》が後びつしやりしますのかい?」
などと頓狂《とんきょう》声を上げる商人風の男もあつた。中でも一ばん熱心に観戦してゐたのは、一人の海軍下士官だつた。二三局目になると、殆《ほとん》ど駒の動き方を覚えてしまひ、自分でも手を出し兼ねないやうな勢ひで、逃げ廻つてゐるBの王様に盛んに声援を与へたりした。
やがて汽車が海軍の飛行場のあるといふ駅に着くと、下士官はあわてて荷物をまとめて下りて行つた。そこでBは初めて、その男が航空隊の人だつたことに気がついた。
「ねえAさん、さつきの将棋の好きな男、誰だか知つてゐますか? あれは飛行家なんですよ。」とBは、数番たてつづけに敗けたあとでA氏に言つて見た。するとA氏は別に意外でもないといつた顔つきで、かう答へた。
「ああ飛行家か。いや多分機関士だらうぜ。僕は前から気がついてたのさ。」
「どうして分かるんです? あの徽章《きしょう》でですか?」
「いや、僕には日本の軍人の徽章なんかちつとも分からんさ。僕があの人を機関士だと断定したのは、
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