ました。それは千恵の弱身からくる思ひすごしでした。Hさんは結局のところ好人物なのです。またもや怪談で千恵をおどかして、退屈しのぎをしようとしてゐるだけのことです。ほんとを言へば、千恵は手頃の案内人の見つかつたことが、むしろ嬉《うれ》しかつたのかも知れません。
外へ出ると、かなりの吹き降りになつてゐました。それが刻一刻とはげしくなるばかりで、やがてO町の交叉点からN会堂の方へのぼるだだつ広い鋪装《ほそう》道路にかかつた頃には、コウモリもまともには差してゐられないほどになりました。どうやら風向きも変つたらしく、北の空めがけてどす黒い鉛《なまり》いろの雲が、ひしめき上つてゆくのが見えました。そんな空を背景に、もうついそこに黒々と姿をあらはしてゐるN堂のドオムは、まるでゆらゆら揺れてゐるやうに見えました。千恵はさつきのHさんの言葉を思ひ出しました。「見せたいものもある[#「もある」に傍点]」なんて、一体なんのことなんだらう。……今度はさつきとは違つて、この変にぼやかした尻《し》つ尾《ぽ》の方が気になりました。「なあに、どうせHさんのことだ。ひよつとするとどこか柱のかげあたりに、例の血あぶらの染《し》みか何かがこびりついてゐでもして、それを千恵に自慢さうに見せてくれるぐらゐなところなのだらう。よし、今日はうんと平気なふりをしてやらう」……そんな妙なことを千恵は考へました。そのくせ胸の中はだんだん不安になつて行きました。
やがてHさんは見知らぬ横町へ折れました。するとすぐ会堂の裏門がありました。それまでもう何べんか会堂の構内をふらつき廻つてゐたくせに、千恵はそんなところに裏門のあることはつい知らずにゐました。白い門柱のあひだを通ると、そこはちよつとした谷間みたいな感じの一廓でした。両側には住宅風の小さな二階家が立ちならび、正面は幅のひろい切り立つやうな石の段々でした。その段々の上はすぐN堂の灰色のずしりと重たい胴体でした。もう大|円蓋《えんがい》は目に入らず、ただその寒ざむとした胴の灰色の壁だけが、のしかかるやうに聳《そび》えてゐるのでした。その谷間は風の吹きだまりになつてゐるらしく、雨に叩《たた》き落された柏《かしわ》や何かの大きな枯葉が、ところどころべつたり敷石に貼《は》りついてゐて、千恵は何べんも足を滑らせさうになりましたが(ほら、母さまもご存じのあの古いゴムの編上《あみあげ》靴をはいてゐたのです――)やがて石段を登りかけようとして、二人は思はずあッと声を立ててしまひました。それは石段ではなくて滝だつたのです。
ふしぎな光景でした。水はものの四五|間《けん》もありさうな石段の幅ぜんたいにひろがつて、音もなくゆつくり流れ落ちてゐるのでした。風が本堂の両側からこの谷間へ吹きおろすたびに、一段々々きれいなさざ波を立ててしぶくのでしたが、そのため水は片側に吹き落されるでもありませんでした。相変らずゆつくり一段ごとに流れおりてくるのです。その水は階段のすぐ足もとにかなりの大きさの水溜《みずたま》りを作つて、それから左右に分れて土の上を流れるのでしたが、そこはもう奔流といつてもいいくらゐの勢ひでした。さすがのHさんもこんな光景は初めてだと見えて、暫《しばら》く呆《あき》れたやうに立ちすくんでゐましたが、やがて何か冗談めいたことを言ふと、水溜りをぼちやぼちや渡つて、石段をのぼりだしました。千恵もそれに従ひました。
もちろん足をさらはれるほどの水勢ではありません。ただちよつと気味が悪いだけのことです。水はあとからあとから流れ落ちて来ます。それはちやうど、本堂の裾《すそ》から垂れてゐる経帷子《きょうかたびら》の裾を踏んで行くやうな気持だつたと言つたら、母さまはお笑ひになるでせうか。でも千恵は冗談どころではありませんでした。どうしたわけか胸が早鐘《はやがね》をうつてゐました。もつともそれは、ほとんど絶え間なしに本堂のあたりから吹きおろしてくる風に傘をうばはれまいとする、その努力のせゐも手伝つてゐたかも知れません。
それでも十段ほど登つて、そこで一休みし、また暫く登りつめたころ、横なぐりに吹きつけた風に傘をながされて、千恵の頭のうへが空つぽになりました。それで黒つぽい雨具をつけた婦人が二人、上からおりてくるのに気がつきました。「おや、あんなところに人が!」とは思ひましたが、まさかそれが姉さまとFさんだらうとは、その瞬間おもひもかけなかつたのです。あちらも用心しいしい悠《ゆっ》くり下りてくるのですから、すれ違ふまでにはだいぶ時間がかかつたのです。距離がやがて二三段にまで縮まつて、二人のレーンコートの黒い裾が目にはいりだした時、また千恵の傘がぐいと横にかしいで、思はず千恵は姉さまの顔を下から見上げてしまつたのです。その刹那《せつな》、眼と眼がぶつかつたやうな気がしました。ひやりとして、あわてて眼をそらしましたが、もうその時は傘がひとりでに立ち直つて、姉さまの上半身は隠れてしまつてゐました。その足もとが何かためらふやうに、ほんの二三秒動かなかつたのを、千恵は覚えてをります。その二三秒のあひだに、とても永い永い時間が流れたやうな気がいたします。ひよつとするとそれは、実際かなり長い時間だつたのかも知れません。やがて二人はそろそろと千恵の横をおりて行きました。二人とも傘はささずに手に持ち、Fさんが片つ方の腕を姉さまの背中へ軽く廻してゐました。
気がつくとHさんが五六段うへに立つて、千恵を見て笑つてゐました。片眼をつぶつて、舌でも出したさうな笑ひ顔でした。「ほらね、やつぱり私の言つた通りでしよ?」と、その顔には書いてありました。千恵はさも平気さうなふりをしてHさんに追ひつき、かうして「姉さま!」と呼びかける機会は千恵にとつて永遠に失はれてしまつたのです。
やがてHさんと千恵は、石段をのぼりきつたすぐ横手にある小さな潜《くぐ》り戸《ど》から、本堂へはいりました。閂《かんぬき》に錠がかけてなく、引くとすぐ開いたのに、Hさんはちよつと小首をかしげたやうな様子でした。……
………………………………………
母さま、千恵はかうしてかねがね一目みたいと心にかけてゐたあの本堂の中へはいつたわけなのですが、思ひ構へてゐたやうな大層なことは、何一つそこにはありませんでした。千恵は何かしら姉さまの秘密をとく鍵のやうなものがあすこに隠れてゐるやうな気がして、その幻の鍵がしだいにふくれあがつて来て、一頃はどうにも始末がならなかつたものでしたが、いざこの眼で見てみれば、秘密も謎《なぞ》も鍵も、そんなものは初めから何もありはしなかつたのです。堂内は冷えびえした午後の薄ら明りでした。吹き降りの気配は忘れたやうに去つて、静寂がさむざむとあたりを籠《こ》めてゐるだけでした。その静寂のなかに、どこからかお香の匂ひが漂つてくるやうな気がしました。もつともこれは気のせゐだつたかも知れません。期待した血なまぐさい臭《にお》ひなんか、これつぱかしも残つてはゐませんでした。広びろしたコンクリートの床は掃除がきれいに行きとどいてゐて、血の痕《あと》はおろか、足跡ひとつ塵《ちり》つぱ一本落ちてはゐませんでした。ただ千恵たちが最初のぞきこんだ場所から少し離れたところに、ぽつぽつと小さな水の垂れた痕があつて、それが右手の外陣のあたりまでずうつと続いてゐただけです。何か漏《も》るバケツでも運んでいつた跡のやうに見えました。
内陣は金色の聖障にさへぎられて、何一つ見えないのですが、なんだかほんのりした光が中にこもつてゐるやうな気がしました。そのため内陣の天井のあたりは、うつすらと薔薇《ばら》色に煙つてゐるやうに思はれました。何かしら温かい感じのあるのはそこだけで、あとはそらぞらしい一面の散光でした。金色の聖障に描きならべてある聖者たちの像までが、そんな光線のなかでは変にけばけばしい、うそ寒い感じを吹きつけてくるのでした。
「ほら、あの辺が最後まで死骸《しがい》が残つてゐた場所なのよ」と、Hさんは外陣の一角を指さして見せました。それは例のバケツの水みたいな痕が行つてゐる先のところでした。質素な木の長|椅子《いす》が五六脚つみ重ねてあるだけで、もちろん何一つ目につくやうなものはありませんでした。
さうです、それは初めから分りきつてゐたことなのです。千恵がばかだつただけの話なのです。
「古島さんがゐると、内陣の中が見せてもらへるんだけどねえ」
と、Hさんがちよつと言訳めいた調子で言ひました、――「あいにくと今日はどこかへ出かけたらしいわ。いつもなら今じぶんあの部屋で勉強してゐるんだけれど。……内陣には色んな立派な宝物があるのよ。……」
さう言はれてみれば、さつき潜り戸から暗い廊下へはいつた時、とつつきの物置めいた小部屋の戸をHさんは軽く叩《たた》いて、返事がないので中を覗《のぞ》きこんだりしましたが、あれはつまりあの青年をさがしてゐたものと見えます。すると結局、さつきHさんが「見せたいもの」と言つたのは、その宝物のことだつたといふわけになります。「なあんだ!」と千恵は思ひ当つて、あやふく笑ひだしさうになりました。やつぱりHさんはHさんだつたので、とんだ取越し苦労が千恵はわれながらをかしかつたのです。
内陣があかないとなれば、そのまま引返すよりほかありません。また暗い廊下を通つて外へ出ようとした時、Hさんはまた例の小部屋のドアを開けてみました。千恵もふとした好奇心で、Hさんのあとから覗《のぞ》きこみました。中は相変らず空《から》つぽでした。
「出かけたんだわ、一張羅《いっちょうら》の上衣《うわぎ》がないもの」とHさんは呟《つぶや》いて、首を引つこめようとしましたが、うしろから覗きこんでゐる千恵に気がつくと、すぐまた気を変へて、
「ちよつとはいつてみる? あの人らしい絵がどつさりあるわよ。この物置、あの人のアトリエなんだもの。」
千恵はうなづきました。あの片腕のない奇妙な青年がどんな絵をかくのか、ちよつと見て置きたい気持がしたのです。
さして広くもない部屋が、半分ほどは椅子《いす》テーブルの山でした。小さな窓が一つあいてゐて、その下に白木のきたならしいデスクが押しつけてあります。その前に椅子が一つ、その背中に千恵にも見覚えのある油じみたブラウスが、だらんと投げかけてありました。床の入口に近いところに、これもやはり油じみて黒光りのしてゐる冷飯草履《ひやめしぞうり》が丁寧に揃《そろ》へてあり、身の廻りのものといつたら唯《ただ》それだけ、あとは足の踏み場もないほど、ぎつしり画架やカンヴァスで埋まつてゐるのでした。
「岡田さんなんかの話だと、これでなかなか見どころがあるんださうだけど、あたしにや何のことやらさつぱり分りやしない。……」
そんなことをぶつぶつ言つてゐるHさんを差し置いて、千恵はいつの間にか部屋の中ほどに立つて、互ひにもたれ掛つたり隠しあつたりしてゐる絵の上に、あてどのない視線をさまよはせてゐました。自画像らしい描きかけの絵もありました。白|鬚《ひげ》の老人の肖像もありました。風景画はほとんどなく、大抵は人物や街頭の光景を扱つたものでしたが、ふとその下から半分ほど覗いてゐるかなり大きな絵に目を惹《ひ》かれて、それを邪魔してゐる絵をそつと片寄せたとき、千恵の注意は思はずその画面に釘づけになつてしまひました。
あれは何号といふのでせうか、四|尺《しゃく》に三尺ほどの横長の絵でした。前景には瘠《や》せこけて骨ばつた男の裸体が、長々と画面いつぱいに横たはつてゐます。そのすぐ後ろの中央には、黒衣の婦人が坐《すわ》つて、どこか中有《ちゅうう》を見つめてゐます。そのうしろには氷河だか石の壁だか、とにかく白々《しらじら》とした帯が水平に流れ、背景ははるかな樅《もみ》の林らしく濃い緑いろでした。千恵が注意をひきつけられたのは、なかでもその婦人の眼つきでした。はじめは中有を見つめてゐるやうに思へたその眼が、よく見ると殆《ほとん》どねむつてゐるのでした。その重なり合つた上下の目蓋《まぶた》の間から
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