かすかに漏《も》れてゐるらしい視線は、よく見ると、下に横たはつてゐる裸かの男の髯《ひげ》もじやの顔をじつと眺めてゐるやうでもありました。あごを突きだして、斜めに反らしたその白い顔には、まぎれもない深い悲哀が浮んでゐます。絵のことにはうとい千恵ですが、それが「悲しみの聖母」といふ画題をあらはした絵らしいといふことは、一目みて推量がつきました。その聖母のやつれた顔をじいつと眺めてゐるうちに、千恵にはそれがどことなく姉さまのあの時の[#「あの時の」に傍点]表情に似てゐるやうな気がしだしました。この「あの時」といふのは、いつぞやの晩あの育児室の窓ごしに覗《のぞ》きこんでゐた時のことかも知れません。つい今しがた石段の滝のなかで擦《す》れちがつた、その瞬間のことかも知れません。いいえひよつとすると、この聖堂の小暗《おぐら》い外陣の片すみで、いきなりあの古島さんといふ青年に抱きついた刹那《せつな》、下から見あげた古島さんの眼にうつつた姉さまの表情だつたのかも知れません。そのどれでもあるやうでもあり、そのどれでもないやうな気もしました。
「あんまり気味のいい絵でもないわねえ。いかにもあの古島さんらしいわ……」と、いつのまにか千恵の後ろに立つてゐたHさんが、持前のがさがさした嗄《しわが》れ声で言ひました。千恵は思はず夢から覚めたみたいになつて、いそいでその絵の前を離れようとしました。二三歩あるきかけて、ふとまた振返つてみました。そのとき眼にはいつたのは偶然その裸か男の髯《ひげ》もじやの顔でしたが、それがにたりと薄笑ひを浮べたやうな気がしました。もちろん千恵の心の迷ひだつたに違ひありません。けれどその薄笑ひをした顔つきが、ほかならぬあの古島さん自身の笑ひ顔に似てゐたことだけは、たしかに千恵の気の迷ひではありませんでした。……
 Hさんは用心ぶかく、さつき千恵が片寄せた絵を元へ戻すと、千恵のあとから出てきてドアを閉めました。千恵は自分の胸が大きく波を打つてゐるやうな気がしてなりませんでしたが、Hさんは一向気づかない様子で、潜《くぐ》り戸《ど》の外へ出ると、
「悪かつたわね、大して面白いものも見てもらへないで……」と、千恵にあつさり別れを告げました。千恵はそのHさんから逃げだすやうな勢ひで、相変らずの吹き降りの中を、傘もささずに表門の方へ駈《か》けだしました。本堂の正面を駈け抜けるとき、千恵の耳には、堂内がごうごうと鳴つてゐるやうな凄《すさ》まじい音が、はつきり聞えました。それはまるで火焔《かえん》が堂内いつぱいに渦まいてゐるやうな音でした。くやしいことですけれど、あとはもう夢中でした。いつのまにO町の外科病院へたどり着いたものやら、さつぱり覚えがありません。気がついてみると、何か吐き気のやうなものがしてゐました。たうとう我慢がならず、お手洗ひへ立ちましたが、結局なんにも吐くものはありませんでした。ただの目まひだけだつたらしいのです。……
   ………………………………………
 母上さま、――
 千恵にはもうこれ以上なんの御報告すべきこともございません。結局なんにも分らないぢやないかと、母さまはひよつとするとお咎《とが》めになるかも知れません。それも致し方のないことです。現にこの千恵自身にも、さつぱり訳が分らないのですから。
 とにかくこれが、母さまのお求めになつた姉さまの消息について、千恵がさぐり出すことのできた全部です。もうこれで姉さまのことは御免をかうむりたいと存じます。姉さまが現にああして生きておいでになる以上、その消息をもとめる役目はこれで役ずみになる筈《はず》はありません。千恵もそれぐらゐのことはよく分つてゐます。けれどこの上の探索は千恵の力がゆるしません。そして恐らくこの手紙をお読みになつた母さまは、もう二度とふたたびこんな役目を千恵にお押しつけになる筈はあるまいと、千恵は固く信じてをります。あれは死んだ姉さまなのです。千恵は今こそはつきりさう申します。姉さまはあの業火《ごうか》のなかで亡くなつたのです。どうぞ母さまもさう信じてくださいますやうに!
 こんなに度たび姉さまと顔を合せながら、つひに一度も「姉さま!」と呼びかけずにしまつた千恵の薄情さを、母さまはお咎《とが》めになるのですか? 「だから千恵さんは情《じょう》が剛《こわ》いといふのですよ!」と、そんな母さまのお声が耳の底できこえるやうです。そのお咎めなら千恵はいくらでも有難く頂戴《ちょうだい》するつもりです。どうせ千恵は情のこはい、現実のそろばんを弾《はじ》いてばかりゐるやうな女です。そのことは幼い頃から母さまにさんざ言はれましたし、この先もきつと一生涯さうに違ひありません。さうですとも、千恵は生きなければならないのです。生きてゆく以上、死人の世界になんぞかかづらはつてはゐられないのです。千恵はそこまではつきり申しあげてもいいのです。……
 でも時たまは、姉さまをほんとにお気の毒だと思ふこともないではありません。なにかしら姉さまのためにお祈りしたいやうな気持の湧《わ》くこともあります。でもその祈りの気持といふのは、煎《せん》じつめてみると結局、このうへ姉さまに俗世のきづなの苦しみを与へてはならないのだ――といふことに落ちついてしまひます。もうすこしきれいな言ひ方をすると、それは姉さまの幸福を傷つけたくないといふ気持――そんなふうにも言へるのかも知れません。
 母さま、――これは偽善の言葉でせうか? でも千恵は、偽善なら偽善でいいのです。そんな偽善よりももつと怖ろしい悪に、わたしたち人間は知らず知らず落ちこみがちなことに、千恵はやうやく気づいてをります。それを母さまの前ではつきり何と名ざすのは、なんぼ千恵でも随分とつらいことです。まあそんな話はやめに致しませう。そろそろ夜明けが近いやうな空気の薄さが感じられます。今日は朝十時から子宮|癌《がん》患者の手術があります。千恵はG先生のお手伝ひをすることになつてゐるので、明るくならないうちに一時間でも二時間でも眠つておかなくてはなりません。では御機嫌よう。これで千恵はおしまひに致します。
 それにしても、お母さま、もしわたしたちのS家にたいする態度が、当時あれほど寛大でなかつたら、わたしたちは狂気の姉さまとふたたび仲よく暮らせたでせうに!……



底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
初出:「別冊芸術」
   1949(昭和24)年3月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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