びたり縮んだりする。左へ廻ればまつすぐ本館の裏口で、あとは三階の病室まで無口のままゆつくり登つていつて、精も根《こん》もつき果てたやうにベッドに倒れて、着替へもそこそこにぐつすり寝こんでしまふ。右へ廻ると、まづ大抵はこの産院の灯が目にはいる。そこで庭のガラス戸を自身の手でそつと押す。あの戸は本館の医務室へ通じる近道なので、夜でも錠はおろさないことになつてゐる。廊下を足音も立てず歩いて来て、まづ一号室の窓にたたずみ、それから二号室の窓にたたずむ。それぞれ二分か三分ぐらゐのあひだ、Fさんは黙つて二三歩さがつて見てゐる。やがて奥さんはまた先に立つて、さつさとガラス戸の方へとつて返す。そして芝生へおりる石段の上で立ちどまつて、ふーっと大きな溜《た》め息をもらす。……それからあとは、至極《しごく》おだやかに寝てしまふのださうですよ。」
「ではあの奥さん、べつにあの気味のわるい児《こ》だけを目がけて来るわけでもないのですね? さつきはちやうど覗いてゐる最中に、あの児がぬつと起きあがつたりしたので、余計にぞつとしたのですけど。……何かその行方しれずになつた子とあの子のあひだに、眉《まゆ》つきとか口もととかの似てゐるところでもあるのかしらと思つて……」
 と千恵は、さりげなくHさんの口占《くちうら》を引いてみました。何しろ潤太郎さんのことは、ほんの幼な顔しか覚えがなく、その記憶も今では随分うすれて、どこか面影《おもかげ》がその児《こ》に通ふやうでもあり、さうかと思ふと通ふやうでもなし、そのため不気味さがますます募るやうに思はれ、やりきれなかつたからです。Hさんなら潤太郎さんの顔を、割合ひ最近まで折ふし見かける機会があつたに相違ありません。
「そりや、まるで似もつきはしないわ!」とHさんは言下に答へました。――「あの坊ちやんは眼のくりくりした、頬《ほお》の色つやのいい子で、あんな青んぶくれのぶよぶよぢやなかつたことよ!」
 そんな語気から察するところ、その児と潤太郎さんとを同列に置いて考へることさへ、Hさんにはさもさも心外だといつたふうに取れました。それが千恵にはもちろん満足でもあり、と同時にHさんの人の好い気負《きお》つた様子が、なんだか少し滑稽《こっけい》でもありました。千恵がそのまま下を向いて黙つてゐると、やがてHさんはまだ腹の虫が収まらないといつた調子で、早口にこんなことを言ひだしました。
「さつきのあの青んぶくれが起きあがつたのなんか、ほんの偶然なのよ。ちやうど寝ぼける時刻にぶつかつたからなんだわ。これまでにも三度か四度そんな偶然の一致があつたけど、あの奥さんの眼、だいいちあの児をなんか見てゐやしなかつたわよ。もつと宙ぶらりんの、当てどもないやうな、妙に切ないみたいな見つめやうなんだわ。いはばまあ、この部屋や隣りの部屋にゐるのだけではない、子供ぜんたいをうつとり見つめてゐる……とでもいつたふうのね。一度なんか窓のすぐ内側にわたしが立つてゐて、近々とあの奥さんの眼を覗《のぞ》いたことがあつたけれど、そんな近くにわたしがゐることなんか、てんで目もくれやしないのよ。……だつてさうぢやない?」と、そこでHさんは言葉を切つて、効果をためすやうに千恵の顔をちらりと見ると、また先をつづけました。――
「ね、さうぢやない? あのN堂へだつて、まだ時たま思ひだしたやうに姿を現はすんだものねえ!」
 千恵は思はずどきりとしました。顔色も変つたに違ひありません。思はず眼を伏せましたが、やがておづおづと眼をあげたとき、Hさんはもうすつかり気が変つたみたいな顔をして、何やら小声で流行《はや》り唄《うた》か何かをうたつてゐました。そして交替時間が来て、わたしたちは別々の部屋へ引きとりました。……
   ………………………………………
 姉さまがいまだにN会堂へ姿を見せると聞かされて、なぜそんなにびつくりしたものやら、千恵はわれながらわけが分りません。ただ何がなしに寒気が背すぢを走つて、そのためぞおーっと総毛《そうけ》だつたのです。そこには何かしら異常なものがありました。千恵はよつぽどどうかしてゐたのに違ひありません。
 その夜はなかなか寝つけませんでした。妙に風の音ばかり耳につきました。それでもやがて眠つてしまつたらしく、なんだか混み入つた夢を見ました。はじめは何でもその病院の庭を、ふらふら歩いてゆくやうでした。千恵ひとりで、もの凄《すご》いほど明るい月夜でした。芝生がいちめんまるで砂浜みたいに白く浮いて、遠くの松原が黒ぐろと影を描いてゐました。その黒い樹《こ》だちのなかに、ところどころ白い斑《まだ》らが落ちて、その一つ一つがよく見ると、まるで姉さまの姿のやうに思はれました。どれがほんとの姉さまかしら?……ふとそんな疑念がきざしたとたんに、夢がぐるぐると目まぐるしいほど急調子に展開しはじめて、あざやかな場面が際限もなく繰りひろげられたやうです。今ではもう跡形もないはずのあの大磯の別荘の芝生を、やはり月夜なのでせう、はつきり見える姉さまの顔と並びあひながら、何やらしきりと口論しながら歩いてゐる場面が妙にはつきり思ひだされるだけで、あとはきれいに忘れてしまひました。
 まあつまらない夢の話なんかやめませう。あくる朝――といつてもお午《ひる》ちかく起きると、千恵はそんな夢のことより、N会堂のことが気になつて気になつて仕方がありませんでした。千恵はそれまでN会堂はあの大きなドオムを遠目に眺めるだけで、一度も門内へはいつたことさへありませんでしたが、さうなるともう、あの聖堂のなかに何か容易ならぬ謎《なぞ》がひそんでゐるやうな気がしきりにしだして、矢も楯《たて》もたまらなくなりました。ところが産院の方は本館づとめとは違つて色々と雑用が多く、受持も育児室から産室、それから分娩《ぶんべん》室といふ工合《ぐあい》にぐるぐる廻るものですから、外出の機会がなかなかありません。それでもやつと何かの用事にかこつけて抜けだして、まるで息せき切つた思ひであの会堂に寄つてみました。午後だつたせゐか本堂の扉はしまつてゐましたが、構内にはちらほら学生などの影も見えたので、千恵も暫《しばら》く散歩のふりをしながら、本堂から小会堂のあたり、裏門の方にある庵室《あんしつ》のへんなどをぶらぶらしてみました。あの古島といふ青年をはじめて見かけたのはこの時でした。片手にバケツをさげて、庵室の横手からひよつくり姿を現はしたのです。かねてHさんから聞いてゐた人相書にそつくりでした。はつと思つた瞬間、眼が合つてしまひました。その眼のことは前にも書いた通りです。無精《ぶしょう》ひげの生えたやつれた顔は、案外血色がわるくはなく、何やら微笑のやうなものが浮んでゐました。瞬間おもはずキッと見つめた千恵の眼に、何か異様なものがあつたのでせう、――古島さんの両眼はぎらりと不気味に光りましたが、すぐまたつつましい伏眼《ふしめ》になつて、そのまますれ違つてしまひました。
 ふしぎな焼けつくやうな印象でした。なぜ姉さまはあんな妙な人にすがりつきなんぞしたのだらう?……千恵は帰りの混んだ電車のなかで考へました。しかも「坊やなのね、坊やなのね!」などとまで口走つたといふではないか。そしてあの人のあのぎらつくやうな眼のなかを一心に覗《のぞ》きこんだといふではないか。つかのまの幻覚だつたのだらうか。……それにしても姉さまがあの瘠《や》せこけた小柄な古島さんをしつかり掴《つか》まへて、上からしげしげと覗きこんでゐる図を目に浮べてみると、妙に切ない、それでゐて何かしら笑ひだしたくなるやうな感じを、どうにもできないのでした。千恵はしだいにこつちまで頭が変になつてくるやうな気がしました。
 二三日たつて、千恵はまたN会堂へ行きました。それからまた一度、もう一度。……帰りの電車のなかでは、もう決して足ぶみもしまいと決心するのですが、暫《しばら》くするとまた例の謎《なぞ》がだんだん膨《ふく》れあがつて、ついまたふらふらと誘ひ寄せられてしまふのです。古島さんには行会ふ時も行会はない時もありました。本堂の扉はまるでわざとのやうに、いつもぴつたり閉ぢてゐました。いいえ、一度だけ扉がひろびろと開け放されてゐたことがありましたが、その日は何かお葬式でもあるらしい様子で、黒の盛装をした外国人の男女が急がしさうに出たりはいつたりしてゐました。その外国人は、盛装をしてゐるため却《かえ》つて変に貧しさが目につくやうな人たちでした。千恵は暫く物珍らしさうに樹《こ》かげに立つて眺めてゐましたが、古島さんの姿はたうとう見かけませんでした。……
 さうかうするうちに病院の実習期も終つて、千恵はまたG博士のお宅で起居することになりました。Hさんにはその後かけちがつて聖アグネス病院ではたうとう会はずじまひでした……。
   ………………………………………
 さうです、母さま、いつそ本当に会はずじまひになつた方が、どれほどよかつたか知れないと思ひます。さうなれば千恵は、しぜん姉さまの消息からも遠のいて、やがて運命の波がふたたびめぐり会ふこともないくらゐ、遠く二人を隔ててくれたかも知れないのです。千恵もじつは内々それを願つてゐました。だのに結局きのふといふ日が来てしまつたのです。
 きのふは朝からびしよびしよ降りの雨でした。おまけに季節はづれの生温い風がふいて、窓ガラスがすつかり曇つてしまふほどでした。お午《ひる》近くになつて突然、G博士は何か急な用事を思ひだしたと見え、分厚な封書を千恵に渡すと、すぐ神田O町のある外科病院へ行つて、院長さんの返事をもらつてくるやうに言ひつけました。雨降りの日によくある電話の故障で、あらかじめ院長の在否を確かめることはできませんでしたが、まあ大抵はおいでだらうと高《たか》をくくつて行つたところ、あいにく院長は埼玉県とかの患者の招きで朝おそく出かけてお留守《るす》、帰りは早くて五時にはなるだらうとのことでした。G病院との電話の連絡は相変らずつかず、よつぽど出直さうかと思ひましたが、行つたり来たりするうちには三時間ぐらゐすぐ経《た》つてしまふ、それに院長のお帰りだつて案外早いことがないとも限らないと思ひ返し、千恵は畳じきの狭い待合室の片隅でとにかく待つてみることにしました。外科の待合室なんてあんまり気味のいいものではありません。もつとも悪性の伝染病の心配だけはまづ無いはずですけれど、頁《ページ》のまくれあがつた手垢《てあか》だらけの娯楽雑誌なんか、手にとるより先に虫酸《むしず》が走ります。こんなことなら文庫本でも持つて出るのだつたと後悔しても今さら追ひつきません。仕方なしに長|椅子《いす》の一ばん隅つこに小さくなつて、居眠りの真似《まね》でもしようとしたのですが、どうしたものか妙に患者が立てこんで、ざわつく人々の出はいりに眼をねむつてばかりもゐられません。そのうちに、仮はうたいの上へどす黒い血がにじんでゐるやうな患者も、いやでも二人三人と目につきます。そんなことで二三十分もたつたでせうか。千恵は例のHさんに声をかけられてしまつたのです。
 奇遇でした。いいえ、むしろ悪運といつた方がいいかも知れません。Hさんはちよつとした破傷風《はしょうふう》で二三日前から休暇をとり、その病院へ通つてゐるのだといふ話でした。今しがた繃帯《ほうたい》を更《か》へてもらつたところださうで、なるほど左の指が三本ほど一緒に真新《まあた》らしい繃帯でゆはへてありました。
 Hさんもこの奇遇には驚いたと見えます。暫《しばら》く話してゐるうちに、千恵が時間を持てあましてゐることを知ると、そのまにN会堂の中を案内してあげようと熱心に言ひはじめました。なるほどN会堂はすぐ近所なのでした。「それに、あんたにちよいと見せたいものもあるのよ」とHさんは言ひました。このあんたに[#「あんたに」に傍点]といふ言葉は、まるで雷のやうに千恵の耳を打ちました。……
「なぜですの? どうしてわたしに[#「わたしに」に傍点]ですの?」と、千恵は思はず言ひ返さうと身構へましたが、ふと思ひついてやめ
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