わ……」と、いつのまにか千恵の後ろに立つてゐたHさんが、持前のがさがさした嗄《しわが》れ声で言ひました。千恵は思はず夢から覚めたみたいになつて、いそいでその絵の前を離れようとしました。二三歩あるきかけて、ふとまた振返つてみました。そのとき眼にはいつたのは偶然その裸か男の髯《ひげ》もじやの顔でしたが、それがにたりと薄笑ひを浮べたやうな気がしました。もちろん千恵の心の迷ひだつたに違ひありません。けれどその薄笑ひをした顔つきが、ほかならぬあの古島さん自身の笑ひ顔に似てゐたことだけは、たしかに千恵の気の迷ひではありませんでした。……
 Hさんは用心ぶかく、さつき千恵が片寄せた絵を元へ戻すと、千恵のあとから出てきてドアを閉めました。千恵は自分の胸が大きく波を打つてゐるやうな気がしてなりませんでしたが、Hさんは一向気づかない様子で、潜《くぐ》り戸《ど》の外へ出ると、
「悪かつたわね、大して面白いものも見てもらへないで……」と、千恵にあつさり別れを告げました。千恵はそのHさんから逃げだすやうな勢ひで、相変らずの吹き降りの中を、傘もささずに表門の方へ駈《か》けだしました。本堂の正面を駈け抜けるとき、千
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