に近く、そして二人の足の運びがもう少し遅かつたら、千恵はきつと追ひすがつて、「姉さま!」と声をかける余裕があつたに違ひありません。そして姉さまはふり向いて、すぐもう千恵だといふことに気がおつきだつたに違ひありません。さうして千恵は今晩とはまつたく違つた性質の手紙を、もう一月も前にお母さまに書いたに相違ありません。偶然が救つてくれたのです。いいえ、偶然と言つたのでは嘘になります。ふらふらつと立ちあがつた瞬間からして、何かしら千恵の足をもつれさせるものがあつたのです。その変にもやもやした束の間のためらひ、それがみるみるうちに濃いはつきりした形をとりだして、千恵の足をほとんど意識的にゆるめさせたのです。そのまに二人はずんずん遠ざかつて、やがて白い病棟の角に消えてしまひました。
 この千恵のためらひを、お母さまは何だとお思ひですか?
「そんなこと、わかつてるぢやないの!」
 と仰《おっ》しやるお母さまの陽気な笑顔が、目の前にちらつくやうです。それは世の中の人がよくするやうなあの空とぼけたやうな笑ひでも、はぐらかすやうな笑ひでも、または何かしら眩《まぶ》しいやうな笑ひでもありません。それはあくま
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