うちに、仮はうたいの上へどす黒い血がにじんでゐるやうな患者も、いやでも二人三人と目につきます。そんなことで二三十分もたつたでせうか。千恵は例のHさんに声をかけられてしまつたのです。
奇遇でした。いいえ、むしろ悪運といつた方がいいかも知れません。Hさんはちよつとした破傷風《はしょうふう》で二三日前から休暇をとり、その病院へ通つてゐるのだといふ話でした。今しがた繃帯《ほうたい》を更《か》へてもらつたところださうで、なるほど左の指が三本ほど一緒に真新《まあた》らしい繃帯でゆはへてありました。
Hさんもこの奇遇には驚いたと見えます。暫《しばら》く話してゐるうちに、千恵が時間を持てあましてゐることを知ると、そのまにN会堂の中を案内してあげようと熱心に言ひはじめました。なるほどN会堂はすぐ近所なのでした。「それに、あんたにちよいと見せたいものもあるのよ」とHさんは言ひました。このあんたに[#「あんたに」に傍点]といふ言葉は、まるで雷のやうに千恵の耳を打ちました。……
「なぜですの? どうしてわたしに[#「わたしに」に傍点]ですの?」と、千恵は思はず言ひ返さうと身構へましたが、ふと思ひついてやめ
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