ました。午後だつたせゐか本堂の扉はしまつてゐましたが、構内にはちらほら学生などの影も見えたので、千恵も暫《しばら》く散歩のふりをしながら、本堂から小会堂のあたり、裏門の方にある庵室《あんしつ》のへんなどをぶらぶらしてみました。あの古島といふ青年をはじめて見かけたのはこの時でした。片手にバケツをさげて、庵室の横手からひよつくり姿を現はしたのです。かねてHさんから聞いてゐた人相書にそつくりでした。はつと思つた瞬間、眼が合つてしまひました。その眼のことは前にも書いた通りです。無精《ぶしょう》ひげの生えたやつれた顔は、案外血色がわるくはなく、何やら微笑のやうなものが浮んでゐました。瞬間おもはずキッと見つめた千恵の眼に、何か異様なものがあつたのでせう、――古島さんの両眼はぎらりと不気味に光りましたが、すぐまたつつましい伏眼《ふしめ》になつて、そのまますれ違つてしまひました。
 ふしぎな焼けつくやうな印象でした。なぜ姉さまはあんな妙な人にすがりつきなんぞしたのだらう?……千恵は帰りの混んだ電車のなかで考へました。しかも「坊やなのね、坊やなのね!」などとまで口走つたといふではないか。そしてあの人のあ
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