ひだしました。
「さつきのあの青んぶくれが起きあがつたのなんか、ほんの偶然なのよ。ちやうど寝ぼける時刻にぶつかつたからなんだわ。これまでにも三度か四度そんな偶然の一致があつたけど、あの奥さんの眼、だいいちあの児をなんか見てゐやしなかつたわよ。もつと宙ぶらりんの、当てどもないやうな、妙に切ないみたいな見つめやうなんだわ。いはばまあ、この部屋や隣りの部屋にゐるのだけではない、子供ぜんたいをうつとり見つめてゐる……とでもいつたふうのね。一度なんか窓のすぐ内側にわたしが立つてゐて、近々とあの奥さんの眼を覗《のぞ》いたことがあつたけれど、そんな近くにわたしがゐることなんか、てんで目もくれやしないのよ。……だつてさうぢやない?」と、そこでHさんは言葉を切つて、効果をためすやうに千恵の顔をちらりと見ると、また先をつづけました。――
「ね、さうぢやない? あのN堂へだつて、まだ時たま思ひだしたやうに姿を現はすんだものねえ!」
 千恵は思はずどきりとしました。顔色も変つたに違ひありません。思はず眼を伏せましたが、やがておづおづと眼をあげたとき、Hさんはもうすつかり気が変つたみたいな顔をして、何やら小声で
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