散歩のついでにふとこの産院の灯《あか》りが目にはいると、何か誘はれるみたいにふらふらつと庭のガラス戸を自分で押すのださうよ。あの奥さんちよつと不眠症の気があるので、夜九時になるときまつて一時間ぐらゐ庭の散歩に連れだすことになつてゐるんですつて。はじめは松原のなかを、ゆつくりゆつくり歩きまはる。それから河岸《かし》へ出て、闇夜でも月夜の晩でも、あすこのベンチに腰かけて、じいつと河の面《も》をみつめる。時たま発動機船がエンジンの鼓動を立てながら、黒々と貨物の山を盛りあげた艀《はしけ》を曳《ひ》いて河口をのぼつて行つたり、あべこべに河口から湾内の闇へ吸ひこまれて行つたりするけれど、奥さんはその黒い影が目にはいるのやら、そのエンジンの音が耳にはいるのやら、さつぱり分らない。身じろぎもせず、じいつと河の面をみつめてゐる。時たまは空を見あげて、何か或るきまつた星を、かなり長い間じつと見守つてゐる。それから突然たちあがると、自分からさつさと本館の方へとつて返す。そしてあの前の院長さんの胸像の立つてゐる円《ま》るい芝生のところまで来たところで、奥さんの足が右へ廻るか左へ廻るかによつて、その夜の散歩が伸
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