て過ぎました。飛行機が一台、かなりゆるい速度で海の方からはいつて来て、都心の方角へ遠ざかつてゆきました。そんな物音が夜の深さをしんしんと感じさせたのを千恵はよく覚えてをります。語りやんだHさんはさも誇らしげな目つきで、じろじろ千恵の顔を観察してゐました。もちろん千恵の唇には血の気が失《う》せてゐたでせう。そのくせ、「見たけりやたんと見るがいい!」とでも云つた捨鉢《すてばち》な、しかも妙な落着きのやうなものが千恵の胸のそこにはありました。ふてくされながら、かげで舌を出してるみたいな気持でした。汚辱とでも屈辱とでも云へる或る毒気のやうなものが千恵のおなかの中に渦巻いてゐるのは事実でしたが、しかもそれが鵜《う》の毛ほどもHさんに感づかれてゐないといふ自信は、なんとしても快いものでした。「ええ、わたしはこの通り臆病《おくびょう》な小娘ですのよ」――すなほに伏目《ふしめ》を作りながら、千恵は思ふぞんぶんHさんに凱歌《がいか》を奏させてあげたのです。それがせめてものお礼ごころなのでした。
 交替の時間まではまだ少し間がありました。そのうちだんだん千恵も口をきく余裕が出てきて、二つ三つ腑《ふ》に落ち
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