もや火照《ほて》つてゐますけれど、でももうあと一踏んばりです。千恵はこの手紙をとにかく最後まで書きあげて、封をしてしまはないことには、とても今夜は眠れさうもありません。あとほんの少しです。母さまももう暫《しばら》くがまんして下さい。……
 どこまで書きましたかしら? ああさうさう、「あのかた」といふ文句で千恵は爪《つま》づいたのでした。
 Hさんの話によると、姉さまの姿はその後もちよいちよいN会堂の構内に見受けられたさうです。残りの屍骸《しがい》は約束どほりその翌《あく》る朝には全部はこび去られ、聖堂の浄《きよ》めもすつかり済んだあとでは、日ましに烈《はげ》しくなる空襲のもと、正面の鉄扉は再び固くとざされてしまつたので、もちろん姉さまは堂内にはいつてわが子の屍体をさがし求める機会は二度と再びありませんでした。その頃はもう通り抜ける人影も稀《まれ》な上に、植込みのそこここには空掘《からぼ》りの防空壕《ぼうくうごう》も散在してゐようといふ荒れさびた聖堂の構内を、姉さまは当てもなくうろつくだけのことでした。その時間も、十分二十分と行きつ戻りつするならまだしものこと、時によると一時間ちかくも構
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