けの余裕があつたさうです。その眼の印象を古島さんは、前にも記しました通り、「それはあのかた[#「あのかた」に傍点]の眼でした、確かにあのかた[#「あのかた」に傍点]の眼でした……」と司祭さんに告げたのでした。この「あのかた」といふのが誰を指すものか、Hさんの話を聞いた当座の千恵には分りませんでした。Hさん自身にしても分つてゐなかつたのでせう。けれど、やがてあとになつて……
 いいえ、千恵はなんだか頭がこんぐらかつて来ました。窓を、窓をあけようと思ひます。……
   ………………………………………
 夜気が流れこんで来ます。まるで霜《しも》のやうに白々《しらじら》とした夜気です。北の空は痛いほど冴《さ》えかへつて、いつのまにか母さまのお好きなあの七つ星が中ぞら近くかかつてゐます。もう夜半はとうに過ぎたのでせう。なんの物音もしません。しんしんと泌《し》みこむ夜気を、千恵の頭はむしろ涼しいやうに感じます。しばらく、向ふの森かげから覗《のぞ》いてゐる焼けただれた工場の黒々とした残骸《ざんがい》に、千恵はほうけたやうに見入つてをりました。
 だいぶ頭が冷えて来ました。まだ頭の芯《しん》は妙にもや
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