片腕で一心に棒ブラシを使つてゐた古島さんは、ふと外陣《げじん》の暗がりの中でうごめいてゐる人の気配を感じて、ぎよつとしたのださうです。死人が蘇《よみが》へつたのではあるまいか――と、咄嗟《とっさ》にそんな錯覚をさへ感じたさうです。それがその婦人[#「その婦人」に傍点]なのでした。姉さまはいつの間にかこつそり忍び込んで、残る幾体かの青黒い屍体《したい》を、身をかがめて一つ一つ覗《のぞ》きこんでゐたさうです。古島さんが呆然《ぼうぜん》としてその姿を見守つてゐると、とつぜん足もとまで這《は》ふやうに寄つて来てゐた姉さまが、矢庭《やにわ》に片手で古島さんの二の腕をつかみ、のこる手を背の低い古島さんの顎《あご》へかけて、ぐいぐい恐ろしい力で突きあげながら、「ああ坊や、坊やだつたのね、ほんとに坊やだつたのね。お母さんは……」とまで言ひかけて、あとははらはらと落涙したのださうです。古島さんはもちろん無我夢中でした。あの落ちついた物に動じない青年が、夢中で悲鳴をあげたのでした。それでもさすがに古島さんは、驚きうろたへながらも、上からまじまじと自分を覗きこんでゐる婦人の眼を、ほんの束《つか》のま見返すだ
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