れが小学も満足に出てゐない人の書いたものかと思はれるほど正しい字づかひでした。しかもその左手で、掃除のバケツも握れば炊事の釜《かま》も洗ふのです。千恵はこの人と言葉こそ交はしたことはありませんが、よそ目ながらN会堂の構内で二度ほど行き会つたことがあります。その一度などは揚水ポンプのついた井戸端で洗濯物をしてゐるところでしたが、その片手の使ひ方の器用なことと云つたら、見てゐる方で妙に不気味な感じがしてくるほどでした。痩《や》せ細つて、背はむしろ低い方、両|頬《ほお》がこけて、ちよつとスプーンのやうな妙な恰好《かっこう》をした顎《あご》ひげを生やしてゐます。そのため青年のくせに何だか年寄りじみて見えましたが、年は二十七だとかいふことでした。するどい、まるで射るやうな眼をしてゐます。けれどその眼も、たつた一ぺんだけ視線を合はせたことがありますが、こちらがハッとした次の瞬間には、虔《つつ》ましく地に伏せられてをりました。声も扉ごしにふと耳にしたことがありましたが、それは一言々々尾をひくやうな物静かな柔和《にゅうわ》な声音《こわね》で、しかもその底に妙にはつきりした物に動じない気勢が感じられまし
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