の姿もFさんの姿も、あの日以来ぱつたり見えないのでした。ただでさへひつそりしてゐるその「特別区域」が、そんな失望のあとではまるで無人の沙漠《さばく》のやうに味気なく思ひ返されるのでした。いつのまにか姉さまは退院なすつたのではあるまいか――そんな疑念さへきざすのでした。
 やがて日曜が来ました。千恵が三階の受持ちになつてからたしか二度目の日曜でした。
 カトリックの病院ですから、礼拝堂のあるのは当り前ですが、それが庭の一隅に別棟になつてゐるのではなくて、この病院では三階の中央の南側へ張りだした広間があてられてゐました。
 そんなところに礼拝堂のあることを、三階の受持ちになつて初めて知つたほどですから、千恵もよくよくの不信心者にちがひありません、はじめの日曜は、ちやうど朝九時のおミサが始まつて間もなく、患者さんの体温表を下の医務室へとどけに行きがてら、その礼拝堂の前を通りかかり、ふと清らかな聖歌の歌ごゑを耳にしただけでした。下りるとそのまま或る若い婦人の急性虫状突起炎の手術のお手伝ひをすることになり(千恵は同級の人たちのあまり喜ばない手術や解剖に、むしろ進んでお手伝ひをすることにしてゐます
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