ス病院の庭のなかでした。聖アグネス病院といふのは、ご存じないかも知れませんが、築地《つきじ》の河岸《かし》ちかく三方を掘割にかこまれてゐる一劃《いっかく》に、ひつそり立つてゐるあまり大きくない病院です。小さいながらも白堊《はくあ》の三階建なのですが、遠見にはかなり深い松原にさへぎられて、屋根のてつぺんにある古びた金色の十字架さへ、よつぽど注意して見ないことには分らないほどです。じつは千恵も学校の実習であそこへ配属されるまでは、かすかに名を聞いた覚えがあるだけで、どこにある病院なのかさつぱり見当もつかないほどでした。
 実習といつても、勿論《もちろん》まだ自分で診察したり施術をしたりするのではなく、まあ看護婦の見習ひみたいな仕事が主でしたが、その三ヶ月の実習期間もそろそろ尽きようとする頃になつて、千恵は姉さまにめぐり会つたのです。つまり姉さまは、ついその二三日前に入院していらしたわけなのです。まつたくの偶然でした。今だからこそ白状しますが、あの湯島の別宅で戦災にあつた後の姉さまやS家の人たちの消息を、なんとかして探りだすやうにといふお母さまの強い御希望を伺ひながら、千恵はほとんど何もしな
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