に近く、そして二人の足の運びがもう少し遅かつたら、千恵はきつと追ひすがつて、「姉さま!」と声をかける余裕があつたに違ひありません。そして姉さまはふり向いて、すぐもう千恵だといふことに気がおつきだつたに違ひありません。さうして千恵は今晩とはまつたく違つた性質の手紙を、もう一月も前にお母さまに書いたに相違ありません。偶然が救つてくれたのです。いいえ、偶然と言つたのでは嘘になります。ふらふらつと立ちあがつた瞬間からして、何かしら千恵の足をもつれさせるものがあつたのです。その変にもやもやした束の間のためらひ、それがみるみるうちに濃いはつきりした形をとりだして、千恵の足をほとんど意識的にゆるめさせたのです。そのまに二人はずんずん遠ざかつて、やがて白い病棟の角に消えてしまひました。
この千恵のためらひを、お母さまは何だとお思ひですか?
「そんなこと、わかつてるぢやないの!」
と仰《おっ》しやるお母さまの陽気な笑顔が、目の前にちらつくやうです。それは世の中の人がよくするやうなあの空とぼけたやうな笑ひでも、はぐらかすやうな笑ひでも、または何かしら眩《まぶ》しいやうな笑ひでもありません。それはあくまで明るい、あくまで快活な笑ひで、ただただ真つ正直な、それなりに気の毅《つよ》いところもある、そして何から何まで自分の良心で割り切つて、いつも清々《すがすが》しい気持でゐられるやうな人の顔にだけ浮ぶ――あの表情なのです。そんなすがすがしい気分のためには、その人は自分の下着の最後の一枚までぬいで、他人に投げ与へることも厭《いと》はないでせう。それどころか自分の腕一本、あるひは腿《もも》一本もぎとつて、飢ゑた虎《とら》にさつさと投げ与へさへするでせう。この何とも云へずさばさばした気前のよさ! それは千恵もだいぶお母さまから受けついでゐるので、かなりよく分るつもりです。それはひとへに良心の満足のためにあります。いいえむしろ、良心の勝利のためにあるのです!
千恵はさうした気性をお母さまから受けついで、そればかりかその善いことを確《かた》く信じさへして、おかげで少女時代を快活に満ち足りて過ごしてまゐりました。幸福に――とさへ言つていいでせう。それについては心からお礼を申したいほどです。しかもその一方、正直に申すと、あのS家のごたごた騒ぎがあつて以来、いいえそもそものあの騒ぎの最中から今申したやうな善行の意味に、千恵はかすかな疑ひを持つやうになりました。娘の幸福に何かしら影のやうなものが射して来ました。そのごたごたと云ふのが、潤吉兄さまの出征後まもなくもちあがつた姉さまの出るの出ないのといふ騒ぎだつたことは、今さら申すまでもないでせう。
「いいぢやないの。かうして先方の言ひなりにこつちはこの通り丸裸かになつてさ、この上なんの怨《うら》まれることがあるものかね!」と、たしか騒ぎが一応落着した頃、千恵の顔に何か心配さうな色を見てとられたのでせうか、相変らずの陽気な調子で、さうお母さまが慰めて下すつたことがありましたね。そのとき千恵は成程《なるほど》と思ひ、何かひどく済まないやうなことをしたやうな気のしたことも、はつきり覚えてをります。
まつたく仰《おっ》しやる通りに違ひありませんでした。もちろん千恵はまだほんの小娘でしたから、ほんたうの事情は当時はもとより今でもよく分つてはゐませんし、またべつに分りたいとも思ひません。とにかく普通の離婚|沙汰《ざた》だけのものでなかつたことは娘ごころにも察しがつきました。また一概に先方のお母さまの腹黒さのせゐばかりでもなかつたやうですし、また家風に合ふとか合はないとかそんな言ひがかりの古めかしさ馬鹿《ばか》らしさはまあそれとして、姉さま自身にだつて今になつて冷静に考へてみれば、やつぱり人間としてそれ相応の欠点はちやんと具《そな》へておいでなのでした。もつともこれは、実の姉いもうとと信じこんで永年一つ部屋に暮らしてゐた千恵が、今の身にひき比べてはじめて申せることなのですが。
まあそんな罪のなすり合ひを今更はじめたところで仕方がありません。結局はだれにも悪意はなかつたのだらうと思ひます。ただ人間どうしの関係といふものは、こじれだしたが最後どうにも始末のわるいものだといふことの、ほんの一例みたいなものだつたのかも知れません。第一かんじんの潤吉兄さまを差しおいて、出すの出るのといがみ合ふなどといふことは、「家」といふものが曲りなりにも解消した今日の眼からは勿論《もちろん》のこと、当時の常識から考へても随分と妙なものに違ひありませんでした。とどのつまりが別居といふことになつて、そこでお母さま一流の気前のよさが始まりました。一々おぼえてもゐませんが、別荘や家作《かさく》が片つぱしからS家の名義に書き換へられたやうでした。そのほか土蔵のな
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