て、こつそり廊下の小窓へ寄つて、唐草模様の銅|格子《ごうし》ごしにそつと堂内をのぞき込みました。すると姉さまがいらしたのです。思ひがけないほど近いところに、その小窓からほんの二三人目のところに、大柄な上半身をつつましく前こごみに跪いてゐるのが附添看護婦のFさんでした。その肩に頬《ほお》を寄せかけるやうにして、うつとりと祭壇の方を見あげてゐる蒼白《あおじろ》い横顔が、姉さまだといふことはすぐ分りました。予期の的中したあまりの思ひがけなさに、千恵がはつと息をつめた瞬間、姉さまの顔が閃《ひら》めくやうにこちらを振り向きました。千恵は思はずぞつと立ちすくみました。けれど気のせゐだつたのです。会衆が一どきに立ちあがりました。千恵はとつさに、さも入口のすぐ外に跪《ひざまず》いてゐたやうな身ぶりを装つて、流れ出る会衆の先頭に立つて礼拝堂を離れました。
 廊下のわかれる角まで来て、千恵は四五人の見習看護婦や看護婦をやりすごしながら、そこにじつと立つて、東側の廊下へまがる人の群に目をつけました。ちらりとFさんの恰幅《かっぷく》のいい肩が見え、その陰からまたしても閃《ひら》めくやうに、姉さまの白い顔がこちらを振り返つたやうな気がしました。それもやはり気のせゐだつたらしく、何ごとも起りませんでした。姉さまの姿は人波にかくれて、そのまま、見えなくなつてしまひました。……
   ………………………………………
 かうして千恵は姉さまの姿を、はじめて近々と見たのです。それはほんの横顔にすぎず、いいえ寧《むし》ろ後姿とも云つていいほどでしたが、しかも二度までちらりと千恵の方を振り返つたやうな気がしたのは、一たいなぜでしたらうか? もちろん千恵の気のせゐに相違ありません。けれど、よしんば刹那《せつな》の錯覚だつたにせよ、その二度までも閃めいた蒼《あお》ざめた姉さまの顔には、何か言ひやうもないやうな或る表情がありました。その顔は白くやつれてゐました。五年前の姉さまには見られなかつた或るするどさ、或るとげとげしさがありました。それと同時に何かしら或る崇高さと、遠い遠いところを見つめるやうな視線の遠さがありました。そんなことを千恵は一どきに感じたのです。直覚とか霊感とかいふものだつたのかもしれません。髪のほつれが目につきました。それもこれもまんざら心の迷ひでなかつたことが、あとになつて段々たしかめられたのです。……
 お母さま。――
 もうためらはずに、何もかも申してしまひませう。千恵があの礼拝堂の銅|格子《ごうし》ごしに見た姉さまの顔は、まぎれもなく狂女の顔だつたのです。
 そのあくる日も、またそのあくる日も、千恵は廊下で姉さまとすれ違ひました。二度ともお午《ひる》すこし過ぎた時刻で、中庭には冬の日ざしが満ちて、廊下は決して暗くはありませんでした。けれど二度とも、姉さまは千恵に気がつきませんでした。鼠《ねずみ》色の見習看護服が、千恵といふものの姿を殆《ほとん》ど見わけにくくしてゐることは確かでせう。ですが本当を申すと、姉さまはすれちがふ人にちらとでも目をくれるやうな目つきではありませんでした。あの印象ぶかい大きな眼は、どこか遠い遠いところにじつと注がれてゐたのです。
 それから四五日して、千恵は三階の病室が二つまで空になつたのを機会に、附属の産院の方へ廻されました。こんどは夜勤でした。
 千恵が姉さまの病状について色々とこまかいことを知つたのは、ほかならぬその産院の夜勤のあひだでした。それを申しあげる段どりになりました。決してお驚きになつてはいけません。それは病状といふよりも、むしろ運命とも言ふべきものでした。千恵はそれを冷静に書きしるしませう。運命の前に驚きあわてることは、ひよつとすると人間の傲慢《ごうまん》さなのかも知れません。それをどうぞお考へください。
 産院といつても、千恵の廻されたのは施療別館の方で、それは殆《ほとん》ど川ぞひと云つてもいいほどの構内の東南隅にぽつんと立つてゐる木造の古びた別棟でした。夜が更けてあたりがひときはシーンとすると、川を上り下りするポンポン蒸汽の音が、たまらないほど耳につくのです。夜勤は九時から二時までとなつてゐましたから、番のあひだはその音が結構ねむけ覚ましになるのですが、いざ宿直室へ引きとつて眠らうとすると、その鈍い規則的な爆音が意地わるく耳について、なかなか寝つけないのでした。千恵の受持ちはその産院のなかでも、ふつう産児室と呼ばれてゐる二つの大きな部屋でした。そこへは廊下と扉にへだてられて、産児のにぎやかな泣声もそれをあやす貧しい母親たちの声も、ほとんど聞えて来ません。この二た部屋に収容されるのが、あるひは産褥《さんじょく》で母親と死別したり、またはその他の事情で生まれて早々母親と生別しなければならなかつた、不幸な嬰児
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