る宗教的な性質から見て明らかでしたが、さうかと云つて別にとりわけ重症患者ばかりを収容してゐるわけでもないところを見ると(現に姉さまは庭をかなり足早やに散歩していらしたのですものね――)、或ひは何かしら俗世のものならぬ特権――いはば教団のえにしとか篤信のあかしとかいふものによつて、選ばれた人たちのための病棟なのかも知れません。まあそんなせんさくだてはともかくとして、姉さまの居場所が思ひのほか近いことを知つた千恵としては、さぐる上の大きな便宜をあたへられたと同時に、こちらの姿を感づかれないために一応の気をくばらなければならない羽目にもなつたのでした。
 ですが、これには大して心配も苦労もいらないことが間もなく分りました。若い女にとつての五六年の歳月といふものは、ひよつとするとどんな上手な変装よりも効果が強いかも知れません。ましてや最近三年ほどの東京の生活は、優に戦争前の二十年にも三十年にも劣らぬほどの遷《うつ》り変りを含んでゐると言はれてゐます。のみならず千恵は、すくなくもこの実習の期間中は病院のさだめに従つて、鼠《ねずみ》色の質素な見習看護婦服のほかは一さい着ることができないのです。それに同じく鼠色のハンカチのやうな頭布をピンで留めてゐるのですから、これはもう姉さまの方でこの病院にはてつきり千恵がゐるにちがひないと思ひこんで、行きあふ女の顔を一つ一つじつと覗《のぞ》きこみでもなさらないかぎりは、決して見つけられる気づかひはないはずなのです。さう思ふと割に気持が楽になりました。千恵はわざわざ二階へ降りるのに東側の階段を使つたりして、なるべく廊下の往き来を頻繁《ひんぱん》にして、再び姉さまの姿をよそながら見る機会を、ひそかに窺《うか》がつてゐました。
 ふしぎなもので、その二度目の機会はなかなか来ませんでした。こつちで会はうとする人には、あせればあせるほど益々《ますます》めぐり会へないものと見えます。千恵が三階の廊下を、わざと遠廻りに東側の階段へまはつてみたり、あるひは昇りしなにその逆の道順をとつてみたりするたびに、廊下にも階段にもまるつきり人影の見えないのが常でした。つやつやと拭《ふ》きこまれたリノリウムに、朝の日ざしが長く長くのびてゐたこともあります。ちやうど三一八号室の角のへんに、患者運搬用の白い四輪車が、置き忘れられたみたいに立つてゐたこともあります。けれど姉さまの姿もFさんの姿も、あの日以来ぱつたり見えないのでした。ただでさへひつそりしてゐるその「特別区域」が、そんな失望のあとではまるで無人の沙漠《さばく》のやうに味気なく思ひ返されるのでした。いつのまにか姉さまは退院なすつたのではあるまいか――そんな疑念さへきざすのでした。
 やがて日曜が来ました。千恵が三階の受持ちになつてからたしか二度目の日曜でした。
 カトリックの病院ですから、礼拝堂のあるのは当り前ですが、それが庭の一隅に別棟になつてゐるのではなくて、この病院では三階の中央の南側へ張りだした広間があてられてゐました。
 そんなところに礼拝堂のあることを、三階の受持ちになつて初めて知つたほどですから、千恵もよくよくの不信心者にちがひありません、はじめの日曜は、ちやうど朝九時のおミサが始まつて間もなく、患者さんの体温表を下の医務室へとどけに行きがてら、その礼拝堂の前を通りかかり、ふと清らかな聖歌の歌ごゑを耳にしただけでした。下りるとそのまま或る若い婦人の急性虫状突起炎の手術のお手伝ひをすることになり(千恵は同級の人たちのあまり喜ばない手術や解剖に、むしろ進んでお手伝ひをすることにしてゐます。現在お世話になつてゐるG博士は、この病院の外科部長でもおありなのです――)おミサのことはそのまま忘れてしまひましたが、清らかな歌ごゑだけはその日の手術のあひだも妙に耳の底にのこつて、消えてはまたふつと現はれたやうな気がします。なんといふ聖歌なのか知りませんが、その旋律は日ましにおぼろになりながら却《かえ》つて印象はだんだん強くなつて、ある聯想《れんそう》と次第にはつきり結びついてゆきました。それは一口に言へば、姉さまはきつとあのおミサの会衆のなかにいらしたに違ひないといふ聯想でした。この聯想はやがて確信になりました。……
 次の日曜日のことでした。折あしく受持ちの患者さんの一人が熱を出して、うは言までちよいちよい言ふ始末で、正規の看護婦はみんな信者ですからおミサに行つて留守《るす》ですし、千恵はなかなか病室をはなれられず、やつと隙を見て礼拝堂へ駈《か》けつけた時にはもうおミサは終りに近いらしく、静まり返つた堂内には一せいに跪《ひざまず》いた会衆のうしろ姿だけが、扉のない入口から見てとれました。その静寂をおして堂内へはいることは憚《はばか》られました。千恵は上靴《うわぐつ》の音を忍ばせ
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