かな! この部屋にゐるのはみんな貧民の子ばつかりよ!」
 保姆さんは吐きすてるやうに言ひましたが、またチラッと千恵の顔へ走らせた眼のなかには、何か憫《あわ》れむやうな微笑がありました。そしていきなり、
「あの人かはいさうに」と人さし指で自分のこめかみをトンと叩《たた》いて、「脳バイだつて噂《うわさ》もあるわ」と、思ひがけないことを言ひだしました。
 千恵は呆気《あっけ》にとられました。といふより、何か金槌《かなづち》のやうなもので脳天をガアンとやられたやうな気持でした。その千恵の表情にまたチラッと眼を走らせた保姆さんは、何を勘ちがへしたものか「可哀《かわい》さうに!」とまるで千恵をあはれみでもするやうな調子でつぶやくと、
「初めてぢや無理もないけど、でもばかに感動しちまつたものねえ。……けどね。ちよつとばかり不気味ぢやあるけど、あの人ほんとは可哀さうな人なんだわ。聞きたい、あの人のこと? 変てこな縁で、あたしあの人のことは割合よく知つてるのよ。」
 ますます意外な話の成りゆきに、千恵はすつかり固くなつて、「ええ」とも「いいえ」とも答へられず、Hさん(これがその保姆さんの名前でした)の顔を見つめてゐました。唇がわれにもあらず顫《ふる》へてゐました。顔色もさぞ蒼《あお》かつたことでせう。
 おびえあがつたやうな千恵の様子を見ると、Hさんはたちまち態度が変つて、さも世話ずきらしいおしやべりな女になりました。それが地金《ぢがね》だつたのです。つまりHさんは、残忍と親切とを半々につきまぜた、世間によくあるあの単純な女の一人だつたのです。なりに似合はず臆病《おくびょう》な小娘にぶつかつて、これはいい睡気《ねむけ》ざましの相手が見つかつたと内々ほくほくしてゐるらしいことは、つい先刻まであんなに不愛想だつた一重《ひとえ》まぶたの小さな眼が、生き生きと得意さうに輝きだしてゐることからも察しがつきました。思へば不思議な一夜でした。千恵はじつと聴耳《ききみみ》をたててゐました。Hさんは時どき横目を千恵の顔のうへに走らせて、そこに紛れもない恐怖の色をたしかめると、また安心して話の先をつづけるのでした。風が出たらしく、松林がざわざわと鳴つてゐました。急に温度がさがつて、Hさんも、千恵もショールを控室《ひかえしつ》へとりにいつて、それを首へ巻きつけたほどでした。
 その晩Hさんが千恵にしてくれ
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