た話といふのは、おほよそ次のやうなものです。Hさんは、あの姉さまの湯島の家とおなじ町内にある大きな薬局の娘なのでした。それで姉さまはもとより、Sの兄さまや潤太郎さんのことまで、前々からそれとなしに知つてゐたらしい上、S家の事情にもかなりよく通じてゐる模様でした。この奇遇を、千恵は感謝していいものかどうかは知りません。……
………………………………………
本郷の南から神田にかけての一帯が焼けたとき、Hさんはまだ産婆《さんば》学校へ通つてゐたので、やはり湯島の本宅で罹災《りさい》したのださうです。夜間の空襲がやつと始まつた頃のことで、「なあに大したことは……」といつた気分のまだまだ強かつた時分でした。その日ちよつと学校の帰りの遅くなつたHさんが暫《しばら》くぶりのお風呂にはいり、「さあ今のうちに寝とかなくちや」などと冗談を言ひながら二階の寝床へもぐりこんで、とろとろつとしたかしないかの間ださうです。隣に寝てゐた妹にいきなり手荒に揺りおこされ、ハッと気がついた拍子に、何やら自転車が二三台ほど空から降つて来でもしたやうな物音が、すぐ裏庭のあたりで立てつづけにしたと言ひます。あとはもう無我夢中で、暗がりの梯子段《はしごだん》をよくまあ踏みはづさなかつたと思ふくらゐ、下の座敷へ飛びこんでみると庭の雨戸はいつのまにか一枚のこらず外され、おやもう夜が明けるのかしらと思つたほど明るかつた。その中で甲斐々々《かいがい》しく立ち働らいてゐる人影が、お母さんやお祖母《ばあ》さんや若い女中だといふことにさへ咄嗟《とっさ》には気がつかなかつたさうです。そこへ縁先から飛びこんできた兄さんに何やら大きな声でどなりつけられ、やつと目が覚めたやうな思ひがしたのもほんの束の間で、あとはまたもや無我夢中。……「大学へ逃げろ。大学へ逃げろ」と、誰かの大声が耳のなかでがんがんするばかり、それにそこらぢゆう一面まるで花火をばら撒《ま》きでもしたやうな閃光《せんこう》で埋まつてゐるやうな気がしただけださうです。
Hさんがやつと炎の海に気づいた時は、大学病院寄りの電車道でお母さんの手をしつかり握つて立つてゐました。一しきり何か物凄《ものすご》い音がして、途方もなく大きな火の蛇《へび》が、ざざーつと這《は》ひ過ぎたのをはつきり覚えてゐるさうです。Hさんはお母さんと大学病院の繁《しげ》みのなかで夜を明かしまし
前へ
次へ
全43ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング