といふ話でした。
 三晩目のことです。病院にはさすがに停電こそありませんが、その晩は殊《こと》のほか電圧がさがつてゐるらしく、只《ただ》でさへうす暗い電球はどれもみんな、なかの繊《ほそ》い線が赤ぼんやりと浮いて見えるほどでした。交代になつて出た頃には子どもはみんな寝しづまつてゐて、寝つきのわるいのが癖の窓ぎはの赤んぼまでが、その晩はふしぎなほど穏やかでした。時をり隣の部屋から、まだ生まれたての赤んぼらしく、ひ弱さうな嗄《しわが》れた泣声がほそぼそと聞えて、またぱつたり絶えてしまひます。それが却《かえ》つてこちらの部屋の静けさを深めるのでした。例の古参の保姆さんはその晩は非番で、代りにゐるのはちよつと目に険のある若い人でした。もちろんその晩が初対面で、千恵が「どうぞよろしく」と丁寧に挨拶《あいさつ》しても、こくりと一つうなづいたきりで、ちやうどその時むづかりだした子の方へさつさと行つてしまひました。おそるおそるそのあとからついて行つた千恵には目もくれず、さつさと自分でおむつの処置をして寝せつけてしまふと、それなり壁ぎはの椅子《いす》にかけて雑誌か何かを読みはじめました。そんな取りつく島もないやうな人でしたので、千恵はなんだか一そう心細く、いつそ誰か子どもが二三人いちどきに泣きだしでもしてくれたら気がまぎれるのにと、すやすや寝息をたててゐる赤んぼの顔をそろそろ覗《のぞ》いて廻りながら、妙に怨《うら》めしい気持がしたほどでした。
 やがてどこか遠いところで時計が一つ鳴りました。腕時計を見ると十時四十分です。そろそろあの子が寝ぼけだす頃だと思つて、千恵は保姆《ほぼ》さんと反対側の壁ぎはの椅子をはなれて、そつとその子のベットのそばへ寄つて行きました。かなり大きく薄眼をあけて、よく寝てゐる様子です。口も半びらきになつて、よだれが出てゐます。そつとガーゼで拭《ふ》いてやりました。青ぶくれの顔が却《かえ》つて透きとほるやうに見え、へんに不気味な大人つぽい感じなのですが、よく見るとさう悪い顔だちでもありません。きつとこの子は父親似なのだらうと思ひました。なんとなくそんな気がしたのです。しばらくその顔を見守つてゐましたが、べつに起きだすやうな気色《けしき》はなく、身じろぎ一つしません。薄く開いてゐる目蓋《まぶた》のあひだが、なんだか青い淵《ふち》のやうでした。……
 そんなふうにしてど
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