から手をはなす瞬間だけは気をつけないとあぶない。その時そつとうしろから手を持ち添へてやれば、ひとりでにまた元の場所に仰向《あおむ》けに寝てしまふ。決してあわてて声を立てたり、揺りおこさうなどとしてはいけない……まあそんな話でした。
そんな話をしてくれる保姆《ほぼ》さんと一しよに千恵がこはごはじつと見てゐると、その子は手すりに両手をかけたまま、まんじりともせずに中有《ちゅうう》をみつめてゐました。うつろな大きな眼でした。昼間みると青々と澄んだきれいな眼をした子なのでしたが、とろんと黄いろい電燈のしたで見るせゐでせうか、まるで浮きあがつた魚のやうな気味のわるい白眼に見えました。瞳孔《どうこう》もかなり大きく開いてゐるのですが、それの向いてゐる先は天井ともつかず壁ともつかず、かといつて真ん前からさし覗《のぞ》いてゐる保姆さんの顔でも千恵の顔でも勿論《もちろん》ありません。まるで何かそのへんにふわふわ漂つてゐるものがあつて、それにぼんやり見とれてゐでもするやうな様子でした。思ひなしかその視線は、じわじわと移つてゆくやうでもあります。けれどその動きは、決してあの分針の動きより速くはないやうに思はれました。……「覚めてゐるのでせうか?」と千恵は小声できいてみました。「さうではないでせう」と保姆さんが答へます。「これで笑ふか泣くかしてくれると、まだしも助かるんだけれどねえ……」まつたく保姆さんの言ふ通りでした。ものの三四分ほど、そんなふうにじつと立つてゐたあとで、その子はやがてそろそろと用心しいしいお尻《しり》をうしろへ突きだすやうにして腰を沈めると、ふわりと手を手すりからはなして、また仰向けに寝てしまひました。「ね、あの腰つきを見たでせう? ああしながらこの子はおしつこを漏《も》らすんですよ」と保姆さんは言ひながら、物馴《ものな》れた手つきでその子の前をはだけて、おむつを替へてやるのでした。千恵の手に渡された濡《ぬ》れたおむつには、なるほど湯気でも立ちさうな尿温がありました。……
「ああ厭《いや》だ厭だ、もし自分にこんな子が生まれたら……」ふと千恵はさう思ひ、反射的にハッとしました。「済まない、こんなことを思つて!」と、部屋の隅にある洗濯物の籠《かご》へそのおむつを投げ入れながら、千恵は胸のなかで何ものかに手を合せました。本館に寝たままでゐる母親のいのちも、どうやら危いらしい
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