エフ 不幸の前というと?
フィールス 解放令の前でございますよ。(間)
ラネーフスカヤ ねえ皆さん、うちへはいりましょうよ、日が暮れてきたわ。(アーニャに)まあ、涙なんか溜《た》めて……。どうかしたの、アーニャ? (抱きよせる)
アーニャ なんでもないの、ママ。ただ、ちょっと。
トロフィーモフ 誰《だれ》か来る。

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浮浪人が出てくる。古ぼけたヒサシ帽をかぶり、外套《がいとう》をまとい、少し酔っている。
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浮浪人 ちょっとお尋ねしますが、ここをまっすぐ、停車場へ出られますかね?
ガーエフ 出られますよ。その道をお行きなさい。
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります。(咳《せき》ばらいをして)まことによいお天気で……(朗読する)はらからよ、苦しみ悩むはらからよ。……出《い》でてみよ、ヴォルガのほとり、聞ゆるは誰の呻《うめ》きぞ。([#ここから割り注]訳注 ネクラーソフの詩より[#ここで割り注終わり])……(ワーリャに)マドモワゼル、この飢えたるロシアの民に、三十コペイカほどどうぞ……

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ワーリャおびえて、声を立てる。
[#ここで字下げ終わり]

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ロパーヒン (憤然として)無作法にも程度というものがあるぞ。
ラネーフスカヤ (怖気《おじけ》づいて)持ってらっしゃい……さあ、これを……(巾着《きんちゃく》の中をさがす)銀貨がないわ。……まあいい、さ、この金貨を……
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります! (退場)

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笑い。
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ワーリャ (あきれて)わたし行くわ……あっちへ行くわ。……お母さまったら、うちの人たちに食べさせる物がないというのに、あんな男に金貨をやるなんて。
ラネーフスカヤ わたし馬鹿《ばか》なんだもの、仕方がないわ! うちへ帰ったら、わたしの手持ちを残らず渡すからね。ロパーヒンさん、また貸してちょうだい! ……
ロパーヒン 承知しました。
ラネーフスカヤ さあ行きましょう、皆さん、時刻ですわ。そうそうワーリャ、さっきここでね、お前の縁談をととのえましたよ、おめでとう。
ワーリャ (涙ごえで)そんなこと、冗談に仰《
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