た。
「夕方から少しはましな天気になりましたね」と彼は言った。「さてこれからどこへ行きましょう? ひとつどこかへドライヴとしゃれますかな?」
 彼女はなんとも答えなかった。
 すると彼は、ややしばしじっと女を見つめていたが、いきなり抱きしめて唇に接吻《せっぷん》した。さっとばかり花の匂いと雫《しずく》が彼にふりそそいだ。がすぐ彼は、誰か見ていはしなかったかと、あたりをおずおず見まわした。
「あなたの所へ行きましょう。……」彼は口走るように小声でいった。
 そして二人は足早に歩きだした。
 彼女の部屋は蒸し蒸しして、日本人の店で彼女の買って来た香水の匂いがしていた。グーロフは今またあらためて彼女を眺めながら、一生の間には実にさまざまな女に出会うものだ! と思うのだった。これまでの生活が彼に残している思い出の女のなかには、恋のために朗らかになる性《たち》で、よしんばほんの束《つか》の間《ま》の幸福にしろ、それを与えてくれた相手に感謝を惜しまぬ、暢気《のんき》でお人好しな連中もある。かと思えばまた――例えば彼の妻のように、その愛し方たるやさっぱり実意の伴わぬ、ごてごてと御託ばかりたっぷりな、
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