まだ多分にあるのを思い出し、――てっきりあの女は生まれて初めてこんな環境、というのはみんなが自分をつけまわしたり、じろじろ眺めたり、言葉を交わしたりするのも元はといえば唯ひとつ、彼女もそれと感づかずにはいられないある種の思惑《おもわく》からばっかりだといった環境に、一人ぼっちで置かれたに相違あるまいとも考えた。彼はまた、女の細っそりした繊弱《かよわ》そうな頸筋《くびすじ》や、美しい灰色の眼を思い浮かべた。
『それにしても、あの女には何かこういじらしいところがあるわい』と彼はふと思って、そのまま眠りに落ちて行った。

       二

 知合いになって一週間たった。祭日だった。部屋のなかは蒸し暑いし、往来ではつむじ風がきりきりと砂塵《さじん》を捲《ま》いて、帽子が吹き飛ばされる始末だった。一日じゅう咽喉《のど》が渇いてならず、グーロフは幾度も喫茶店へ出掛けて行って、アンナ・セルゲーヴナにシロップ水だのアイスクリームだのをすすめた。ほとほと身の置きどころがなかった。
 夕方になって、風が少し静まると、二人は船のはいるのを見に波止場へ出掛けた。船着場には人が大ぜい歩きまわっていた。誰かの出
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