いることや、いつぞや民間のオペラで歌の練習生になったこともあるが中途でやめにしたこと、モスクヴァに家作が二軒あること……そんな話をした。いっぽう女からは、彼女がペテルブルグで生《お》い立ったこと、しかし嫁《とつ》いだ先はS市で、そこにもう二年も暮していること、ヤールタにはまだひと月ほど滞在の予定なこと、良人も息抜きをしたがっているから多分あとからやって来るだろうこと、そんな話を聞き出した。彼女は自分の良人がどこに勤めているのか――県庁なのか、それとも県会の方なのかがどうしても説明がつかず、それを自分で可笑しがっていた。グーロフはまた、彼女がアンナ・セルゲーヴナという名前だということも知った。
やがてホテルの自分の部屋に帰ってから、彼は彼女のことを考えて、明日もきっとあの女はひょっくり自分と行き逢うにちがいないと思った。そう来なければ嘘だ。寝床にはいる段になって彼はふと、あの女がついこの間まではまだ女学生で、ちょうど自分の娘が今やっているようなことを習っていたのだとあらためて思い返したり、そうかと思うとまた、彼女の笑い方や未知の男との話しぶりには、おずおずした角《かど》のとれない様子が
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