が》にかけなかったばかりか、その種の話がまずたいていは、御自身その腕さえあれば悪事を働きたくってうずうずしている連中の創作にかかるものであることも承知していた。ところがいざその奥さんに、三歩とへだてぬ隣のテーブルに坐られてみると、やすやすと口説《くど》き落した手柄話や、奥山へドライヴをした話などが事新しく思い出されて、行きずりの儚《はかな》くもあわただしい関係だの、名前も苗字も、どこの何者かも知らない婦人とのロマンスだのという、誘惑的な想念がたちまち彼を俘《とりこ》にしてしまった。
 彼は優しく小犬においでおいでをして、その寄って来たところを、指を立てておどかした。小犬はううと唸《うな》った。グーロフはもう一度おどかした。
 奥さんはちらっと彼の方を見て、すぐまた眼を伏せた。
「咬《か》みは致しませんのよ」と彼女は言って、赧《あか》くなった。
「骨をやってもいいでしょうか?」そして彼女がうなずくのを見て、彼は愛想よく問いかけた、「ヤールタに見えてから大分におなりですか?」
「五日ほどですの」
「私はまもなく二週間というところまで、どうにかこうにか漕ぎつけましたよ」
 二人はしばらく黙っ
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