ってくれもし、ほんのちょいとした微笑《ほほえ》ましいエピソードぐらいに見えるけれど、まっとうな人間――ことにそれが優柔不断な思い切りの悪いモスクヴァ人の場合だと、否《いや》が応でもだんだんに厄介千万な一大問題に変わって来て、とどのつまりは何とも身動きのならぬ状態に陥ってしまうものである。といった事情は、たび重なる経験のおかげで、それも全くもって苦い経験のおかげで、彼はとうの昔に知り抜いていた。だのにまた胸そそられる女に出くわす段になると、せっかくの経験もどうやら記憶からずり落ちてしまって、ああ生きることだと思い、この世の一切が実にたわいもない、面白|可笑《おか》しいものに見えて来るのだった。
さて、ある日のこと夕暮近く、彼が公園で食事をしていると、ベレの奥さんが別に急いだ気色もなく、隣のテーブルめざして近づいて来た。その表情や歩きつきや、衣裳や髪かたちなどからして彼は、相手がちゃんとした身分の婦人で、人妻で、ヤールタには初めての滞在で、しかも独りぼっちで退屈していることを見てとった。……この土地の風儀の悪さについては色々話もあるが、とかくそれには嘘八百が多いので、彼はてんから歯牙《し
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