靨《えくぼ》、そのぶかぶかの制帽――そのためになら、彼女は自分の命を投げだしても惜しくはなかったろう。それどころか、喜び勇んで、感動の涙をながしながら、命を投げだしたに違いない。どういうわけで? だがそのわけを、一体だれが知り得よう?
 サーシャを学校まで送りとどけてしまうと、彼女はゆっくりと家路につくのだったが、その時はいかにも満ち足りた、ゆったりと安らかな、愛情のあふれこぼれんばかりの気持だった。彼女の顔もここ半年ほどのうちにまた若返って、にこにこと朗らかに輝いている。行き会う人々はその顔をつくづく眺めて、思わずうれしくなってこう話しかける。――
「こんにちは、可愛いオリガ・セミョーノヴナ! ご機嫌はいかが、可愛い女《ひと》?」
「当節では中学の勉強もなかなか難しくなりましてねえ」と彼女は市場でそんな話をする。「ほんとに冗談じゃありませんわ、昨日なんかも一年生はお伽詩の暗誦と、ラテン語のお訳《やく》と、もう一つ何か宿題が出たんでございますよ。まったく、小っちゃな子にあれでいいものでしょうかねえ?」
 それから彼女は先生がたの噂、授業の話、教科書の話と、かねがねサーシャから聞いている
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