ーシャが言う。
 それから彼は往来を学校の方へ歩いてゆく――自分は小っぽけなくせに、大きな制帽をかぶってランドセルを背負っている。そのあとからオーレンカがそっとついて行く。
「ちょっとサーシェンカ!」と彼女が呼びとめる。
 少年がふり返ると、彼女はその手に棗《なつめ》の実やキャラメルを握らせる。学校のある横町をまがると、少年は自分のあとから背の高いでぶちゃんの女がついて来るのが恥ずかしくなって、くるりとふり返ってこう言う。――
「ねえ、おばさんは家へお帰りよ、僕もう一人で行けるから」
 彼女は歩みをとめて、瞬《またた》きもせずに少年の後ろ姿を、学校の昇降口へ消えてしまうまで見送っている。ああ、どんなに彼女にはこの子がいとしいことだろう! 彼女がこれまでに覚えた愛着のなかには、これほど深いものは一つとしてなかったし、また日一日と胸のうちに母性の愛情がつよく燃えあがってゆく現在ほどに、彼女がなんの見さかいもなしに、欲も得もはなれて、しん底からのうれしい気持で、自分の魂をささげきる気になったことは、後にも先にもただの一度もありはしなかった。彼女にしてみれば赤の他人のこの少年、その両の頬にある
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