の時、まるで私の袂《たもと》をぐいと引戻しでもするやうに、弁士がいきなり黄色い声を張りあげて、
「よいかな、お立会」と叫んだ。
これはまた、意外の呼びかけを聞くものである。そこらの新興宗教と違つて、ガマの油でも売り出すのかも知れん。そんなら久しぶりで一見の価値がある。私は人垣のうしろに立つた。
人垣といつても大した人数ではない。せいぜい十二、三人ほどだが、みんな相当のインテリらしい人品《じんぴん》である。アロハの兄ちやんや闇屋風の者は一人もゐない。買物|籠《かご》をさげた主婦の姿もない。むづかしい顔をして熱心に聞いてゐる。客種から察するところ、新興宗教だとしても、よほど高級な一派と見える。
「よいかな、お立会」と、弁士はもう一ぺん言つて、射抜くやうな目つきで聴衆を睨《ね》めまはした。
「ここが肝腎かなめな所ぢや。されば信長公の招きを受けたウルガン伴天連《バテレン》(おや、またウルガンが現はれたぞ!)弘法《こうぼう》の好機ござんなれと喜び勇《いさ》んで京を指して上《のぼ》つたが、そのとき摂州《せっしゅう》住吉の社《やしろ》、たちまち鳴動して、松樹六十六本が顛倒《てんとう》に及んだぞ。よいかな、六十六本ぢやぞ。この六十六を何と見る。まぎれもない、わが日本国の国かずぢや。」
甲高《かんだか》いくせにネチネチした、どうも不愉快な声である。私はよつぽど立去らうかと思つたが、この松の木のことでちよつと興味を引かれた。こんどの敗戦の直後、このK市では急に松が枯れだした。目ぼしい松は、一本残らず赤枯れに枯れた。それを思ひ出したのである。何を言ひ出すか暫《しばら》く聞いてみよう。
「それはさて置き、ウルガン伴天連やがて安土に到着して、信長公の目通りに出る。身には、蝙蝠《こうもり》の羽を拡げたやうなアビトといふ物を着け、御前に進んで礼をする。その礼式は、足指を揃《そろ》へて向うへ差出し、両手を組んで胸に当て、頭をずいと仰向《あおむ》くる。懐中の名香《みょうごう》、そのとき殿中に薫《こう》じ渡る。献上の品は何々ぞ。七十五里を一目に見る遠目金《とおめがね》、芥子粒《けしつぶ》を卵の如《ごと》くに見る近目金、猛虎の皮五十枚、五町四方見当なき鉄砲、伽羅《きゃら》百|斤《きん》、八畳釣りの蚊帳《かや》、四十二粒の紫金《しこん》を貫《ぬ》いたコンタツ。……すべてこれ、信長公をたばかり、その甘
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