面《おもて》に挙げた。
「まあ、アスカム様。」
 読みさしの書を傍の小卓のうへに押しやつて、数へ年十五の姫は立つた。アスカムはその手を止めて、手ざはりの粗い頁《ページ》のうへ、刷りの黄ばんだ希臘《ギリシャ》文字に、すばやく眸《め》を走らせる。
「フェエドンを読まれてか?」
と、ややあつて訊《き》く。姫は巴旦杏《はたんきょう》のやうに肉づいた丸い脣《くちびる》を、物言ひたげに綻《ほころ》ばせたが、思ひ返したのかそのままに無言で点頭《うなず》いた。アスカムは窓に満ちる春霞《はるがすみ》の空へと眼を転ずる。揚《あ》げ雲雀《ひばり》の鋭い声が二つ三つ続けざまに、霞を縦に貫《つらぬ》いて昇天する。やがて彼が優しく問ひかけた。
「あの雲雀《ひばり》のやうに春の日を遠慮なしに浴びるのはお厭《いや》か。なぜに父御と一緒に狩に興ぜられぬ?」
 ジェインは微笑《ほほえ》んだ。智に澄んだ瞳のやや冷やかな光がその漾《ただよい》に消える。
「園の遊びごとは」と彼女が言ふ、「プラトンの書に見る楽しみにくらべて物の数には入りませぬ。まことの幸の棲処《すみか》もえ知らぬ、世の人心のうたてさ。」……


 古《いにし》
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