面《おもて》に挙げた。
「まあ、アスカム様。」
 読みさしの書を傍の小卓のうへに押しやつて、数へ年十五の姫は立つた。アスカムはその手を止めて、手ざはりの粗い頁《ページ》のうへ、刷りの黄ばんだ希臘《ギリシャ》文字に、すばやく眸《め》を走らせる。
「フェエドンを読まれてか?」
と、ややあつて訊《き》く。姫は巴旦杏《はたんきょう》のやうに肉づいた丸い脣《くちびる》を、物言ひたげに綻《ほころ》ばせたが、思ひ返したのかそのままに無言で点頭《うなず》いた。アスカムは窓に満ちる春霞《はるがすみ》の空へと眼を転ずる。揚《あ》げ雲雀《ひばり》の鋭い声が二つ三つ続けざまに、霞を縦に貫《つらぬ》いて昇天する。やがて彼が優しく問ひかけた。
「あの雲雀《ひばり》のやうに春の日を遠慮なしに浴びるのはお厭《いや》か。なぜに父御と一緒に狩に興ぜられぬ?」
 ジェインは微笑《ほほえ》んだ。智に澄んだ瞳のやや冷やかな光がその漾《ただよい》に消える。
「園の遊びごとは」と彼女が言ふ、「プラトンの書に見る楽しみにくらべて物の数には入りませぬ。まことの幸の棲処《すみか》もえ知らぬ、世の人心のうたてさ。」……


 古《いにし》への物語はやはり古風な話し振りをせねばならぬので骨が折れる。が兎《と》に角《かく》、一五五一年、時の碩学《せきがく》ロウジャ・アスカムがブラッドゲイトの城にジェイン・グレイを訪ねて、その叡才《えいさい》に舌を捲《ま》いた折の情景は、僕《やつがれ》未だ彼自らの手に成る記録を読む機会を得ず、他人の抜書きしたのを一見したのに過ぎぬが、先《ま》づこの様なものだつたらうと想像する。なほジェインの話は続いて、その読書の道に入つた動機を滔々《とうとう》と述べ立ててゐるのだが、長くなるから割愛することにして、以下少しばかり智の権化《ごんげ》のやうなこの少女の上を振りかへつて見たい。
『倫敦《ロンドン》塔』のなかで漱石の言つた通り、「英国の歴史を読んだもので彼女の名を知らぬ者はあるまいし、又|其《そ》の薄命と無残の最後に同情の涙を濺《そそ》がぬ者はない」に違ひない。
 しかし、ここに遺憾なことは、人々の興味がヘンリイ八世の小姪に当る高貴なその生れとか、数奇を極めた十七年の生涯とか、その美貌《びぼう》とかの方へ牽《ひ》かれがちなため、彼女の魂の美しさを物語る遺文がともすれば、好事家《こうずか》の賞玩《しょ
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