・リヴォーヴナを指して見せると、またごろりと横になって、外套にくるまってしまった。
 と、その瞬間、カテリーナ・リヴォーヴナの外套がぱっとその頭にかぶさったと思うと、目の粗いシャツ一枚の彼女の背なかへ、二重により合わせた縄のずんぐりした先っぽが、百姓のくそ力いっぱいに、ぴしりぴしりと振りおろされはじめた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、きゃっと悲鳴をあげたが、なにせ外套をすっぽり頭にかぶせられているので、声はさっぱり聞えない。その両肩には屈強な囚人が坐りこんで、両腕をがっしり抑えていた。
「五十」――やっと数え終ったその声は、誰が聞いても紛うかたないセルゲイの声だった。そこで深夜の訪問者たちは、ぱっと戸のそとへ掻き消えてしまった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは頭の蔽いを払いのけて、はね起きた。誰もいなかった。ただついその辺で、誰かが外套を引っかぶりながら、さも小気味よげにヒッヒと笑っているだけだった。カテリーナ・リヴォーヴナにはそれがソネートカの笑い声だとわかった。
 こうなってはもう、通り一ぺんの口惜しさではなかった。その刹那カテリーナ・リヴォーヴナの胸に煮えくり返った情念も、無辺無量のものがあった。彼女は無我夢中で前へつき進んで、とっさに抱きとめたフィオーナの胸へ、おなじく無我夢中で倒れかかった。
 そのむっちりとした胸は、ついこのあいだカテリーナ・リヴォーヴナの不実な情人に、みだらな歓楽を満喫させたものに違いなかったが、今や彼女はほかならぬその胸の上で、じぶんのやるせない歎きを、泣いて泣いて泣きつくそうというのである。まるで母親にすがる子どものように、愚かなだらけきった恋仇にぴったり抱きついているのである。今ではもう二人は同格だった。二人とも同じ捨値をつけられて、あっさり抛りだされたのだ。
 二人は同格なのだ!……行きあたりばったりに身をまかせるフィオーナと、愛慾の悲劇を身をもって演じつつあるカテリーナ・リヴォーヴナとが!
 とはいえカテリーナ・リヴォーヴナは、もうちっとも口惜しくなかった。すっかり泣ききってしまうと、彼女は石のような無表情な顔になって、木彫り人形さながらの落着きすました物ごしで、点呼に出る支度をはじめた。
 太鼓がタッ・タララッ・タッと鳴ると、営庭へ囚人たちがなだれを打って出てくる。足に鎖のついた者、足に鎖のつかない者。セルゲイもいる、フィオーナもいる。ソネートカもいれば、カテリーナ・リヴォーヴナもいる。分離派信者が、ユダヤ人と一つ鎖につながっているかと思えば、ポーランド人とタタール人の二人三脚もある。
 みんな集合してしまうと、やがてどうにか隊伍らしいものを組んで、さて出発だ。
 ゆううつ極まる光景である。世間からはもぎ離され、前途に明るい望みの片影をすら抱くことのかなわぬ人間の一団が、どろ道の冷たい黒いぬかるみの中に、足をとられとられ動いて行くのだ。あたり一面、見るも怖ろしいほどのあさましさだ。涯しもないぬかるみ、灰色の空、濡れそぼった柿の裸木、そのひろがった枝々には羽根を逆だてた鴉のむれ。風がうめく、いきりたつ、かと思うと吼えたてる、わめいて過ぎる。
 聞くだけでもう魂がかきむしられる思いのするその地獄のような風音《かざおと》こそ、あたり一帯のむざんな光景に睛《ひとみ》を点ずるものなのだが、その音のなかからは、聖書にあるヨブの妻の忠告が響いてくるようだ、――『汝が生まれし日を呪いて死ねよ』と。
 この言葉に耳をかたむける気になれず、これほどの悲境に陥ってもなお死ぬという考えに心をそそられるどころか却って恐怖を感じるような人は、その吼えたける声を消すために、何かもっとおぞましいものに一生けんめい縋りつかなければなるまい。そうした事情を、単純な人間は実によく心得ているものだ。そこで彼らは、持前の素朴な野獣性を思うさま発揮して、馬鹿のかぎりをつくしだす自分を嘲弄し、他人を愚弄し、人情を冷笑する。それでなくても大して柔和な人間でもなかった彼らは、ここに至って二層倍も兇暴になるのだ。

       *        *        *

「どうですね、おかみさん? あい変らず奥方さまには、ご機嫌うるわしくいらせられますかい?」――そんな鉄面皮な挨拶をセルゲイがカテリーナ・リヴォーヴナに向ってしたのは、ゆうべ泊った村がびしょ濡れの丘のかげにだんだん隠れて、ついに囚人隊の眼界から没し去った頃だった。
 そう言うと、彼はくるりとソネートカの方へ向き直って、じぶんの外套の裾で彼女をくるんでやり、高らかな裏声でこんな歌をうたいだした。

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小窓のなかの 小暗いところで
  亜麻色あたまが ちらつくよ。
まだ起きてるね わが悩みの種
  眠られないのか にくいやつ。
裾ですっぽり くるんでやろ
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