夜が更けたかと思うと、そっと戸があいたので、彼女はいきなり跳び起きた。わくわくしながら、暗い廊下にセルゲイを両手でさぐった。
「おれのカーチャ!」と、ぎゅっと抱きしめざまセルゲイが言った。
「あ。あんた、憎らしい人!」と、涙ごえでカテリーナ・リヴォーヴナは答えると、そのまま両の唇で吸いついた。
 番兵が廊下を行ったり来たりしていて、ふと立ちどまって長靴の先に唾をする。そしてまた歩きはじめる。戸のなかでは疲れた男囚たちがいびきをかき、鼠がストーヴのかげで鵞ペンをかじる。コオロギがわれ劣らじと声をはりあげて歌っている。カテリーナ・リヴォーヴナは、まだうっとりとわが身の幸に酔っている。
 だがやがてその陶酔にも倦きがきて、散文が聞えだすのはけだし止むをえない。
「死にそうに痛むんだよ。くるぶしの附け根から膝がしらのとこまで、骨ががくんがくんて唸りやがるんだ」とセルゲイが、廊下の隅の床べたにカテリーナ・リヴォーヴナと寄り添って坐りながら、ぐちをこぼす。
「どうしたらいいだろうねえ、セリョージェチカ?」男の外套の裾にもぐりながら、彼女が心配そうにきく。
「まあ仕方があるまいな、カザンの病院に入れてでももらうほかにゃ。」
「まあ、縁起でもない、どうしたのさ、セリョージャ?」
「だって仕様がないじゃないか、今にも死にそうに痛むんだものな。」
「じゃあ、お前さんが後に残って、あたしだけ追っ立てられて行くのかい?」
「どうも仕方がないさ。こすれるんだ、それこそ猛烈にこすれるんだよ、まるで鎖がまるごと骨の中へ食いこみでもするようにな。せめて毛の長靴下でも穿いてたらいいんだがなあ」と、やや間合いを置いてセルゲイが言いだした。
「長靴下だって? そんならあたしのとこにまだあるよ、ねえセリョージャ、新しいのがさ。」
「いいや、それにや及ばねえよ!」と、セルゲイは答えた。
 カテリーナ・リヴォーヴナはそれなりもう何も言わずに、すばやく部屋の中へ姿をかくすと、寝板のうえの自分の背負い袋をかきまわして、また急いでセルゲイのそばへ取って返した時には、厚手の青い色をした旅行用の長靴下のけばけばしい側筋のはいったものを、一足ぶらさげていた。
「やあ、これでもう大丈夫だ」とセルゲイは、カテリーナ・リヴォーヴナと別れしなに、彼女の最後の靴下をとりあげながら言った。
 カテリーナ・リヴォーヴナはしんから嬉しくなって、じぶんの寝板へ戻ってくると、ぐっすり眠ってしまった。
 眠った彼女の耳にはきこえなかったが、じつは彼女が戻ってきて暫くすると、ソネートカが廊下へ出ていって、そろそろ夜の白みだす頃に、こっそり帰ってきたのである。
 それはカザンまであと二丁場という晩の出来事だった。

      ※[#ローマ数字15、102−8]

 寒々と暗雲の垂れこめた日が、時おり思いだしたように吹きつける風と雨を伴なって、雪をさえちらつかせながら、息づまるような営舎の門をあとにした囚人隊を、剣もほろろに出迎えた。カテリーナ・リヴォーヴナはかなり元気な様子で出て来たが、隊伍に加わったかと思うと、たちまち全身わなわなと顫えがついて、まっ蒼な顔になってしまった。眼のなかはまっ暗やみになり、節々はうずきだして、今にもへたへたと崩折れそうだった。カテリーナ・リヴォーヴナの前に立っているソネートカのはいていたのは、例のけばけばしい側筋《わきすじ》のはいった、まがい方ないあの青い毛の靴下だったのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、まったく生きた心地もないままで、その日の道中に出でたった。ただその両眼は裂けんばかりにセルゲイをみつめて、片時もその顔からそれなかった。
 最初の小休止のとき、彼女は落着きはらってセルゲイのそばへ寄っていって、『恥しらず』とささやいた拍子に、思いもかけずその顔へ真向から唾を吐きかけた。
 セルゲイは彼女に躍りかかろうとしたが、はたの者に引きとめられた。
「覚えてろ、この女《あま》め!」と彼は言って唾をふいた。
「だがどうも大したもんだぜ、あの女、おめえなんかにビクともしねえや」と、囚人たちがセルゲイをからかう中で、一きわ賑やかな笑い声を立てたのはソネートカだった。
 ソネートカが一役買って出たこのちょいとした一幕は、ぴったり彼女の好みに合ったのである。
「なんにしろこのままじゃ済まねえから、そう思ってろよ」と、セルゲイはカテリーナ・リヴォーヴナに捨てぜりふを言った。
 悪天候のもとの強行軍にへとへとになって、カテリーナ・リヴォーヴナは次の営舎の板どこの上で、傷ついた胸をいだきながら、その夜ふけ不安な夢路をたどっていた。したがって彼女は、女囚部屋へ二人の男がはいって来た気配に気がつかなかった。
 彼らがはいってくると、ソネートカが寝板から身をもたげて、無言のままカテリーナ
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