うよ
  人目にかからぬ 用心に。
[#ここで字下げ終わり]

 そう歌いながらセルゲイは、ソネートカを抱きしめて、隊のみんなの目の前で、音たかだかとキスをした。……
 カテリーナ・リヴォーヴナはその一部始終を、見ていたとも言え、見なかったとも言える。彼女は歩いてこそいたけれど、実はもう生きた心地もなかったのだ。みんなは彼女をつついたり小突いたりして、セルゲイがソネートカを相手にいちゃついている有様を、見せようと節介を焼きだした。彼女はいい笑い物にされたのである。
「そっとしておおきよ」とフィオーナは、つまずきつまずき歩いてゆくカテリーナ・リヴォーヴナを隊の誰かがからかおうとする度ごとに、そう言って彼女をかばうのだった。「お前さんたちには分らないのかい、この悪党め、この人がひどく加減のわるいことがさ?」
「てっきり、おみ足がずぶ濡れになったせいだろうな」と、若い男囚がまぜっ返した。
「当りめえよ、歴乎とした商家のお生まれでいらせられる。おんば日傘でお育ちあそばしたんだぞ」と、セルゲイが合の手を入れる。
「そりゃ勿論、せめてあのおみ足に、もそっと温々《ぬくぬく》した靴下でもお穿かせ申したらなあ、そうなりゃあ、これほどのお悩みもあるめえにさ」と彼が言葉をつづけた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、はっと目が覚めたみたいだった。
「まむし、毒へび!」と、彼女は堪忍ぶくろの緒を切らして口ばしった、――「笑いたいならいくらでもお笑い、まむしめ!」
「いいや、俺あね、おかみさん、何も笑うのなんのって言う段じゃないんだぜ。ただねこのソネートカの奴がとても上等な靴下を売りたがってるんでね、そこで一つ、おかみさんそれを買ったらどうだろうと、こう思っただけなんだがね。」
 おおぜいしてドッと笑った。カテリーナ・リヴォーヴナは、ゼンマイ仕掛の自動人形みたいに歩いていた。
 天気はますます悪くなって来た。空をおおっている灰色の雲から、水気の多いぼた雪が落ちはじめて、地面にふれるかふれないうちに融けては、底なしのぬかるみを益※[#二の字点、1−2−22]ふかくした。とうとう行く手に、どんよりと鉛いろをした帯が見えはじめた。その向う側は見わけがつかない。この帯がつまり、ヴォルガ河だった。ヴォルガの上には風が吹き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、ゆっくりと大きな口をあけてもちあがる暗い波を。前へ押したり後ろへ引いたりしている。
 全身ぬれ鼠になって、ふるえあがった囚人の一隊は、のろのろと渡し場にたどりついてそこで停止して渡し船を待った。
 これもずぶ濡れの黒い渡し船がやって来た。乗組員の案内で、囚人たちが乗りこみはじめる。
「なんでもこの渡し船にや、誰かヴォートカをこっそり売ってくれる奴がいるって話しだぜ」と、ある男囚が言いだしたのは、大きなぼた雪がさかんに降りかかる渡し船が岸をはなれて、そろそろ荒れだした河の面に立つうねりのまにまに、揺れはじめた頃だった。
「そうさな、さしずめこんな時こそ、ちょいと一杯やるなあ悪くあるめえな」とセルゲイは応じて、ソネートカの御機嫌とりに、カテリーナ・リヴォーヴナをいじめる手をゆるめず、――「どうだい、おかみさん、昔のよしみに免じて、一ぺえ買っちゃあ貰えまいかね。まあそう吝《しみ》ったれるなってことよ。昔やそれでも、おれの色じゃねえか。おたがい大あつあつだった頃にや、仲よく遊び※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りもしたし、秋の夜長をしんみり語り明かしたこともあるじゃねえか。お前さんの身うちの誰かれを、お寺さんの厄介にならずに、二人であの世へお送り申したこともある仲じゃねえか。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、寒くって全身がくがく震えていた。いや、びしょ濡れの着物をとおして骨までも沁みこむ寒さばかりでなくて、カテリーナ・リヴォーヴナの体内には、何かもっと別の現象までが起っていた。頭が燃えるようにかっかとしていた。瞳孔はひろがって、ぎらぎらする光をちらつかせながら、じいっと浪のうねりを見つめていた。
「ヴォートカはいいわね、あたいも御相伴したいわ。まったく、こう寒くっちゃやりきれない」と、ソネートカが鈴を振るような声を出した。([#ここから割り注]訳者註。ソネートは鈴の意[#ここで割り注終わり])
「ねえ、おかみさん。おごれよ、なんだい!」と、セルゲイが食いさがる。
「なんぼなんでも、そりゃ阿漕だよ!」とフィオーナが思わず口走って、咎めるように頭をふり立てた。
「あんまりやると男がさがるぜ」と、ゴルジューシカという少年囚が、兵隊の女房に助太刀をする。
「ほんとだよ。お前さんとこの人との相対《あいたい》ずくなら、何を言おうと勝手だろうがね、なんぼこの人だって少しや傍目《はため》というものがあろうじゃないか。あ
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